グラフィティの醍醐味はまちの人たちの反応
グラフィティというのは、街の壁なんかにスプレー缶で描いた文字や絵です。アメリカの映画やミュージックビデオによく登場する落書きの壁画が起源です。 グラフィティはヒップホップ文化の1つでもあり、1960年代にニューヨークのブロンクスで生まれたといわれています。その頃のNYは、ドラッグが蔓延していて、放火やレイプや殺人が日常茶飯事というくらい荒廃していたのだそうです。 そんな犯罪にあふれたゲットーの子供たちが、レコードをスクラッチして新しいビートを作り始めたり、路地で頭をクルクルとヘッドスピンさせるダンスを編み出したり、街角の壁にスプレー缶で文字や絵を書き始めたり……。次第にそういう技を競い合うことが、銃や暴力にとって代わるようになって、ヒップホップという文化が形づくられていきました。DJ、ブレイクダンス、ラップ、グラフィティが、ヒップホップ文化の4大要素と言われています。
私がヒップホップに興味をもったのは中学生のとき。最初は音楽、そのうちダンスにのめり込むようになりました。絵を描くのも好きでしたけど、スプレー缶を握って描くようになったのは20歳のときです。地元・焼津にグラフィティやってる女の子がいて、その子と一緒に始めてみたんですね。描いてみたら、見てくれた近所の人とか、近くで釣りしてるおじさんが「いいね」って言ってくれたり、差し入れもってきてくれたり……。 グラフィティって、否応なく周囲の人たちの目に入るものですね。美術館の絵は、わざわざ見に行かなきゃいけないけど、壁画はみんなの目に入るから反応も大きい。怒る人もいるし、ほめてくれる人もいる。そういういろんな人のいろんな反応が面白いんです。
私はその頃、静岡県立短期大学の看護学科に通っていました。看護師になることは、小さい頃からの夢でした。私はいつも何か夢中になっているものがあって、あるときはダンスだったり、柔道だったり……。柔道は高校時代からかなり本気でのめり込んでいたのですが、ケガをしたり、看護師の国家試験があったりで断念しました。あと、アメリカに住むこと、英語を喋れるようになることも、漠然とではありましたが自分にとって人生の大きな目標でした。
帰国の直前に開かれたコミュニティへの扉
看護師として働きはじめて感じたのは、1つの大きな目標を失ったということ。夢がかなったことで、何だか毎日がつまらないと思うようになって、じゃあ次の夢を実現しようと留学資金を貯金しはじめました。奨学金を全部返して、3年間で400万円ためたんです。その頃はもうグラフィティにのめり込んでいましたから本場NYに行きたいと、2002年の6月、看護師の仕事を辞めて日本を発ちました。
まず、語学学校に入学しました。何とかグラフィティがらみのつながりが欲しかったのですが、アンダーグラウンドの文化だし、当時は英語もあまりできなくて、なかなかそういうチャンスに巡り合いませんでした。唯一見つけたのが、サウスブロンクスのコミュニティセンターで、有名なグラフィティ・アーティストが子供向けに開いていたグラフィティ教室。毎週土曜日に通って子供たちに絵を教えていましたが、アーティストとしての活動につながるようなことはなかったんです。
2年たったころ、お金が底をついて、これはもう帰んなきゃいけないなという状況になって……。そんなとき、そのコミュニティセンターで1枚のフライヤーをもらったんです。女の子だけのヒップホップのイベントで“Graffiti writer Wanted”(グラフィティ・ライター求む)と書いてありました。ものすごく緊張しながら電話して、「私グラフィティやってるんだけど、ホームページがあるので見てください」って。 私の絵を見てくれたのは、Tooflyっていう、NYで活躍中の女の子のグラフィティ・アーティストでした。本当に最後の最後、帰る直前に、そのイベントに参加させてもらって、1日かけて女の子3人でコミュニティセンターの壁画を仕上げました。 その日から、いろんなつながりが一気に生まれはじめたんです。すごい嬉しかった。それで「また帰ってくるよ」って言い残して、日本に帰ってきました。
世界各地での創作活動が新たなつながりを生む
帰国したらNYの友達から、「今度フィラデルフィアでグラフィティ・ジャムがあるよ」という連絡がありました。特にサマーシーズンにはジャムとかブロックパーティーとか呼ばれるヒップホップのイベントが全米各地であるんです。公園を借り切って、DJが音楽かけてダンサーがクルクル回って、あちこちの壁にグラフィティ・アーティストがみんなで作品を描いて、近所のおじいちゃんやおばあちゃんも集まる。つながりができたことで、私もそういうイベントに呼んでもらえるようになったんですね。
04年に帰国してからは、1年のうち10カ月は看護師として働き、夏になると2カ月お休みをいただいて、グラフィティの活動をしています。地元・焼津にある岡本石井病院でお世話になっているのですが、理解のある職場に恵まれて本当に幸せです。
これまで絵を描きに行った国は、ドイツ、ニュージーランド、オーストラリア、中国の上海、オランダ。最初にドイツに行ったのは2007年、「私の作品が好き」というアーティストからメールもらったのがきっかけでした。彼女が「私は今、妊娠中でどこにも行けないから、いつでもドイツに来ていいよ」って。真に受けてすぐチケット買って行っちゃったんです。 フランクフルトの空港に着いたら、連絡をくれた彼女のご主人が、私がいちばん好きなグラフィティ・アーティストだった!というサプライズもありました。本当にラッキーで、ドイツでイベントに出してもらったうえに、「アムステルダムに行きたい」って言ったら、「僕らも用事があるから」って車で連れていってもらって、オランダにも友達ができました。
2008年は、「We b*girlz」(ウイービ−ガールズ)っていう世界の女性ヒップホップ・サミットに出席しました。実はその年、イベントのロゴマークに私の絵が採用されたんです。DJもラッパーもグラフィティ・アーティストもみんな女の子。パネルディスカッションでは、男性社会の中で女の子たちがどう頑張っているかを発表し合ったり。とてもいい経験になりました。 今年は上海万博のドイツ・パビリオンに、ゲストで参加しました。中国にも私の絵のファンだという若者がいて、グラフィティのグローバルなネットワークには驚くばかりです。
自分を受け入れなければ自分の表現はできない
ニューヨークに住んでいたとき、英語はネイティブじゃないし、黄色人種だし、生まれて初めて人種差別を経験しました。すごくつらかった。日本人であるだけで、どうしていじめられなきゃいけないんだろうと思いましたね。 それが、グラフィティを通じてヒップホップのコミュニティに入れてもらい、自分を表現させてもらったとたん、みんなが受け入れてくれた。言葉でのコミュニケーションが不完全であっても、自分を自分として表現できれば受け入れてもらえるということは、大きな自信につながりました。そういう経験もあって、ますますグラフィティの世界にはまっていったんだと思います。
ヒップホップというのは、誰でも参加できて、誰でも楽しめる、誰でも頑張れる可能性がある文化です。人種も年齢も性別も関係なく、1つの壁に向かってみんながアイディアをもち寄る。描いていると近所の人たちが差し入れもってきたり、子供たちが周りをワイワイ走り回っていたり……。朝出会った仲間が、夕方までにみんな友達になっていて、大きな壁画がドーンとできあがる。
いちばん嬉しいのは、そうやって生まれた壁画が、私が日本に帰った後も存在し続け、そこに住む人たちの生活とともにあり続けるってことです。ときどき忘れた頃にメールが届くんですよ。「私はあなたが描いた壁画の向かいのアパートの住人です。絵はまだちゃんとあります。毎年夏になると、絵の前で近所の人とパーティーやってます」とか。 世界のあちこちのコミュニティで絵を描かせてもらって気付いたことは、自分が日本人で、こういう肌の色で、こういう髪の毛だということを受け入れないと、自分の表現にはならないということ。白人ぶったり黒人ぶったりしていちゃダメなんですね。自分自身が、自分の肌の色、髪の色、目の色、自分のルーツ、自分の人生全部を受け入れていないと、自分の絵は描けない。
自分のコミュニティに誇りを感じているかどうかも大切です。私は生まれは焼津、育ったのは神奈川で、15歳のとき焼津に戻ってきました。水産業関係で仕事をしている友達が私の絵を気に入ってくれているつながりで、焼津の水産漁業関係の建物にもいくつか作品を描いています。自分のコミュニティで自分自身を表現できることは、やっぱり嬉しいしありがたいです。
終わりがある人生を最大限に生きることが幸せ
もう1つ、旅をして感じたことは、自分がいかに恵まれているかということです。上海でも「お金がありません」っていう札下げて道に正座している子供がいる。NYのブロンクスでも、ドラッグから抜け出せなくて、バスに乗るお金がないほど貧乏な人たちがいる。そういう人たちのなかには、絵が描けたり、ダンスができたり、才能に溢れているのに、貧しさのために挑戦すらできない人もいます。
世界はアンフェアだとも思いますよ。私は毎月決まったお給料がもらえて、ご飯も食べられて、好きな服も買えて、行きたい国を旅できて、そういう人たちを見ると申し訳ないとも思います。でも、だからこそ自分は与えられた境遇に感謝して、もっと可能性を活かして、いろんなことに挑戦していかなきゃいけないなと思うんです。
病院で看護師として働いていると、「人生には終わりがある」ということを嫌でも目の当たりにします。誰でもいつか病気になったり、ケガしたり、最終的には死んでいく。だから、与えられたチャンスは絶対に活かさなきゃいけない。与えられた自分の時間をどう活かすかが大事だと思うんです。 「人生には終わりがある」というごく当たり前のことに気付いた人、そういうことにできるだけ早く気付いて最大限に生きている人が、幸せな人なんじゃないかと思います。だから私は今、とても幸せなんです。
取材日:2010.08