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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

新設大学発のベンチャー第1号。
地方企業が首都圏の拠点とするレンタルオフィスを運営。

矢後真由美(やご・まゆみ)

矢後真由美(やご・まゆみ)



株式会社Teable 代表取締役


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首都圏イノベーションセンター MICAN

志望校を諦めて発見した自分のフィールド

 私が学んだ静岡文化芸術大学は、新設校ということもあり、バイタリティーに溢れた実務経験豊富な先生がそろっていました。私たちが第1期生です。先生も学生も各人の意向を尊重する雰囲気があって、先生が「これをやりなさい」と指示するのでなく、私たちから主体的に取り組むほど学ぶことも大きい――そんな校風でした。
 私は小さい頃から絵を描くのが好きでしたが、その一方で理系科目が得意で、将来は工業デザイナーになりたいと思っていました。高校は県内でも屈指の進学校だったのですが、センター試験に失敗して国立大学に落ちてしまったんです。勉強は高校3年間、それなりに頑張っていましたけれど、「この人たちの頭の中はどうなっているんだろう」というくらい優秀な友達が周囲にたくさんいて、一生懸命やっても全然かなわなかった。
 第一志望ではない「滑り止め」でしたから、入学当時、自分のモチベーションはかなり低くて、実は、学校の課題をさっさと済ませて受験勉強を続けていました。「仮面浪人」みたいな感じですね。あの頃は、浜松も嫌い、大学も行きたかったところじゃない、「高校はいい学校だった」という変なプライドもあって、とにかく何もかもイヤだった。
 でも、2回目の受験にも失敗しちゃったんですよね。それで、これはもう今の大学で頑張るしかないなと、気持ちを切り替えることにしました。2年生からは、授業もたくさん取って、学校内外のデザインコンペに応募したり、英語に対する苦手意識を克服しようとニュージーランドへの語学研修に参加したり……。「自分のフィールドはここなんだ」「大学の資源を活かさないのはもったいない」と意識を変えて、学校をフル活用してみることにしました。

一生懸命になるほど空回りしてバイトに逃避

 ところが、3年になるとスランプに陥ってしまった。授業では、例えば「健康福祉機器の新しいデザイン」のように、大きなテーマで課題が出されるのですが、実際にデザインへ落とし込むテーマ設定は自分でしなきゃいけない。私はこのテーマ設定がすごく苦手で、いつも考えすぎてしまって、その結果、ものすごく面倒な、学生の力量では解決できそうもない大テーマを掲げてしまう。案の定、課題発表のプレゼはうまくいかないくて、先生にも「こいつは一体何をやっているんだ」と、一生懸命やるほど空回りしてしまう。やればやるほど自信をなくしました。
 だんだんイヤになっちゃって、バイトばかりしていましたね。コンビニ、店舗装飾、飲み屋……いろんなバイトをしました。でも一種の「逃げ」なんですよね。バイトはバイトでとても勉強になりましたが、内心、学校で評価されない自分にもがき苦しんでいました。
 当時の私は、デザインは自分の個性を出さなきゃいけないものだと信じていたんです。「人がやらないこと」「私以外にはできない何か」をデザインして、注目される人間になりたい――そう思っていたんです。でも、今だから言えることですが、デザインって、1人で完結できるものじゃないんですよね。いろんな人との連携があって、初めて成り立つ。
 当時の私はそんなことは知りませんでしたから、ペンのデザイン1つとっても、人間工学的な研究調査をして、使いやすさを定量化して、とことん機能性を追究して……みたいなことをやっていたんです。そんなことする友達はいませんでしたから、自分ではユニークなアプローチだと、先生にも「スゴイ」と一目置かれると期待していた。ところが、ふたを開けてみると「これはマズイ」という空気になっていて、ものすごい孤立感でした。すっかり自信をなくしましたね。
 高校時代は周囲があまりに優秀なので、勉強がだんだん苦痛になって、「大学では好きなデザインを勉強して、今度こそ自分を発揮しよう」――そう思っていました。大学生になった自分を思い描いて、大学生活を本当に楽しみにしていたんです。それが受験に失敗して、おまけに「滑り止め」だったはずの大学でも、なかなか自分が評価されない……。
 だんだん気付いたことは、自分が思っているほど、自分は万能じゃないということ。それはとても受け入れがたい気付きでした。4年生になって、文具や家具のメーカー、製造業の企画デザインなどを志望して就職活動しましたが、これまたうまくいかなかった。就職氷河期の真っ只中でしたし、第一期生ですからOBもいない、大学の知名度も低いということもあったと思います。

「これを学んだ」という実感を求めて大学院へ

 大学院に行こうと思ったのは、就職が決まらなかったこともありますが、大学院の指導教官となる伊坂正人先生に「デザインを突き詰めて勉強したほうがいいんじゃないか」と言われたことが大きいです。いつまでもバイトに逃げていないで、「私はこれを学んだ」という何かをつくろうと、親を説得して大学院への進学を決めました。
 伊坂先生が当時よくおっしゃっていた言葉の一つにソーシャルデザインという言葉がありました。学部3年生のときから授業があったのですが、「単にモノの形をつくるのではなく、人が生きる仕組みやシステムづくりも含めてデザインするのがデザイナーの役割」という考え方に刺激を受けました。学部の卒業制作では、クリエイター向けの新しいオフィス家具ユニットを提案したので、大学院ではこれをさらに発展させ、新しい働き方まで提案できるオフィスコンセプトをテーマにしました。
 大学院に進学したもう1つの理由は、ドイツへのインターンシップです。文芸大は「地域に開かれた大学」ということを掲げているので、地元企業を中心にインターンシップに力を入れています。私は、学部と大学院を合わせると計3回、インターンを経験しました。最初は静岡工業技術研究所のユニバーサルデザイン室、2回目は富士通のソリューションデザイン部、そして3回目はフランクフルト近郊にあるブラウン社で、半年間、仕事をさせていただきました。
 向こうでは当然、日本語が通じませんから、最初は本当に死ぬかと思いました(笑)。ブラウン社の社内は英語が公用語なんです。大学院に入ってから英会話学校にも通っていたのですが、どういうわけか、なかなか通じない。唯一の救いは、デザイン部には私以外にも海外からのインターン生がいたということですね。

満足いくデザインと英語でのプレゼが自信に

 ブラウンのデザイン部は、デザイナーとモデラー合わせて30人ぐらい。その人たちが世界に出回っているすべてのブラウン製品――歯ブラシ、シェーバー、ドライヤー、コーヒーメーカー、ミキサー、時計など、ものすごい数の小型電気製品をデザインしていて、1人のデザイナーが長年にわたって同じ製品を担当するのが特徴です。日本のように異動がないんですね。  もう1つ、日本と大きく違うのは「売れるデザイン」より、ブラウンというブランドのアイデンティティが優先される点です。「ブラウンデザイン」の指針があって、デザイナーもブラウン社のデザインに自信と誇りをもっている。
 働き方は日本より自由で、会社自体が完全にフレックスタイム制でした。基本的に仕事のために働くというのではなく、家族や自分の時間を楽しく過ごすために働くという考え方ですから、残業するのがいいわけでない。最近あの人見ないなと思っていると、「1カ月ぐらいバカンスに行っているよ」ということもよくありました。
 半年間でしたが、週末はパーティーに行って、会社以外の人とも交流したり、いろんな世界を見ることができましたね。そのうちに英語での会話にも慣れてきました。
 インターンシップの最後には、考案したデザインを英語でプレゼンしました。自分としては満足のいく、いいデザインができたという手ごたえを感じました。上司もいいデザインだねと言ってくださって、商品化まで漕ぎ付けなかったのは残念でしたが、大きな自信になりましたね。

アイディアとニーズがマッチしたオフィス構想

 地方のサラリーマンが東京へ出張に行くときに使えるレンタルオフィスという「首都圏イノベーションセンターMICAN」の構想は、修士論文を書くために、いろいろなオフィスコンセプトを考えるなかで生まれました。最初にアイディアありきだったので、本当にニーズがあるかどうか、浜松商工会議所に行って、いろんな職種の経営者にヒアリング調査したんです。そうしたら、経営者のお1人が、「僕も君と同じようなことを考えている」と。いろいろお話をするうちに、「どうせなら行政とか金融機関も巻き込んで、そういうオフィスが作れないかな?」「君、図面書けるなら、ちょっと手伝ってよ」。――それが、浜松にあるスペースクリエイションの青木邦章社長との出会いです。
 「そういう図面が実例として載せられたら、きっといい論文になるよ」という青木社長の言葉に促されるままに、早速、図面を描きました。青木社長は私が作った資料や図面をもって、地元の銀行や企業、静岡県や浜松市の担当者などを集めて、計3回、意見交換会を開いてくださった。これは事実上、MICAN結成のための応援団づくりになりました。2006年のことです。
 そうこうする間に、静岡銀行さんから東京の事務所に空きがでそうなので、使ったらどうかというお話があり、今度はそのスペースに合わせて、レイアウト図面を引き直しました。静岡銀行さんも、ちょうどその頃、県内の中小企業のさらなる支援を考えていらした頃だったようですね。

「やってみたら?」に背中を押され起業を決意

 最初はあくまで論文を書くためにヒアリングに行ったわけですが、気がつくと、レンタルオフィス構想が実現しそうな方向に動き始めたんです。本当に不思議でした。青木社長からは「矢後さん、将来どうしたいの?」ということをよく聞かれました。「それはもちろん、いつかは独立したいですよね」と言うと、「じゃあ、今からやってみたら?」と。まあ、そのときは話半分ですよね。まさか、実現するとは思っていないじゃないですか。ですから就職活動はしていました。でも、工業デザインの分野はなかなか厳しかった。デザイン業界ではコンテンツ産業が主流という時代ですから。
 お正月を過ぎても就職先が決まらなくて、伊坂先生からも「本当にレンタルオフィスの運営を考えてみたら?」と言われました。最終的には、伊坂先生と青木さんそれぞれに背中を押されて、目の前のチャンスに乗っかったという感じですね。青木社長はご自分の会社があるし、伊坂先生も大学がある。となると、現実的には私がやるのがいちばんいいのかなと。自分がデザインしたオフィスを運営するのも悪くない、起業もよくわからないけど面白いかも――だんだんそう思うようになって、伊坂先生と青木社長を引き合わせる役を私が務めました。
 問題は運営組織の形態です。株式会社かNPOかLLP(有限責任事業組合)という選択肢のなかから、株式会社に決まったのですが、株式会社には資本金が必要です。まず、伊坂先生と青木社長にお願いし、卒業式の日には、お世話になった他の先生方に「会社を作りたいので、一口5万円出資していただけないでしょうか」と言って歩きました。
 最終的に株主が10人、100万円の資本金が集まりまして、伊坂先生と青木社長には、会社の取締役にもなっていただき、2007年4月に「株式会社Teable(ティーブル)」が誕生しました。静岡文化芸術大学発のベンチャー第1号です。

新しいオフィスのあり方そのものがデザイン

 MICANがオープンしたのは、2007年の11月。大井町駅前にあるアゴラ大井町・静岡銀行ビルの3階にあります。ルーム会員専用の個別ルームが11室、フリー会員専用の共有ブースが6つ、他に打ち合わせや作業スペースとしても使える多目的スペース、10人まで収容できる会議室が2つ。駅から歩いて2分と、立地条件もいい場所です。
 開設から3年を迎えまして、現在、会員は35社。おかげさまで、会員数も売上げも年々伸びています。MICANの役割は、東京にオフィスがない地方の中小企業が、「都心に拠点が欲しいけれど、家賃が高い」という問題を解決するためにスペースを提供すること。しかし単なるレンタルオフィスにとどまらず、イベントによる異業種交流の促進や会社案内や宣伝ツールのデザインをサポートなど、MICANが会員さんのビジネス支援の拠点となることを目指しています。そういう新しいオフィスのあり方全体が、デザインなわけですね。
 今後は起業を支援するインキュベーション・マネジャーの機能も担っていけたらいいなと思っています。 この3年間は、何事も初めてで、ひたすら勉強の日々でしたが、もうそろそろ次の戦略を練ったり、新たな展開のための営業を始めるつもりです。

後輩とともにデザインの喜びをシェアしたい

 私の中にアイディアがあったといても、伊坂先生と青木社長との出会いがなければ、MICANは実現しなかったでしょうね。もしかしたら私でなくても、MICANの運営はできたのかもしれません。いろんな方にご協力いただいたことで、自分が活躍できる場を与えていただいたのだと、感謝しています。
 毎日、仕事は本当に楽しいです。いろんな仕事に関わっているうちに、自分が得意なこともわかってきました。学生時代までは「自分はこういう特技があるからこういう方向へ行こう」という発想でしたが、社会人になってさまざまな局面に対峙するうちに、自分の可能性が広がってきたような気がします。「こんなこともできるんだ」という発見もあります。最近思うのは、個性が強い人たちの間で調整役を務めたり、つなぎ役となることが得意ということです。
 考え方も柔軟になりましたね。目の前に気持ちが滅入るような事態が起こっても、「MICANの存在意義は、会員企業や地元の産業が発展していくこと」という初めに掲げた目的を思い起こすことで、大局的に捉えることができるようになってきました。学生時代は、友達でさえ見方を変えればライバルなわけですけれど、自分が起業してからのつながりというのは、協力の可能性を秘めた関係がほとんどです。会社員になっていたらまた違うのでしょうけれど、張り合う必要がないのはいいなと思います。
 会員企業さんや各地の産業のために頑張って行きたいということの他に、もう1つ目標にしていることがあります。それは、静岡文化芸術大学の卒業生が当社に就職してくれること。「デザインの力でこんなこともできる」という喜びを分かち合える後輩と一緒に仕事するのが、当面の夢ですね。

取材日:2010年12月



静岡県駿東郡小山町生まれ 東京都在住


【 略 歴 】

2000静岡県立沼津東高等学校 卒業
2004静岡文化芸術大学 デザイン学部生産造形学科 卒業
2007静岡文化芸術大学大学院 修士課程デザイン研究科 修了
株式会社Teable 設立
首都圏イノベーションセンターMICAN を設立

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