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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

伊東温泉のために芸者たちのできることを実現。
「お座敷文化大學」を運営する一方、伝統継承も。

浪千代(なみちよ)

浪千代(なみちよ)



伊東芸妓事業連合協同組合 芸能部長
「分浪柳」置屋主


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伊東温泉 お座敷文化大學

縁のなかった伊東でみんなに助けてもらって

 私の生まれは徳島県なんです。だけど、伊東に住んでもう40年近く。人生の大半をここで過ごしているんです。だから、ここで生まれた人より私のほうがいろんな思い出を持っているかもしれませんね。今では「四国は生まれた場所、ふるさとは伊東」って言えるかなと思っているんです。丈夫に生んでもらったこと、大事に育ててもらったことも含め、今はすべてのことに感謝しています。
 伊東に来てからは、どこに行ってもかわいがってもらって、辛かった思い出などはないですね。一人前の芸者になるために、踊り、鳴り物、長唄、三味線、民謡とたくさんお稽古ごとをしたのですが、それぞれの師匠もみんな大好きな人たちばかり。90歳以上まで健在だった鳴り物の師匠は、「塩辛ができたから取りにおいで」なんて声を掛けてくれたり。踊りの師匠にはプライベートなことまで本当にお世話になっていて、今でも変わらずお付き合いをさせていただいています。
 もちろん、厳しいこともたくさん言われています。扇で足をはたかれて青あざができたりすることもしばしば。でも、それも愛のムチですよ。私は“おきゃん”なんです。昔から活発でさっぱりとした性格。いやなことがあっても次の日になればけろっとしている。泣くこともあったと思うけど、全部忘れちゃう。逆に、私が傷ついたんじゃないかと相手が気にしているんじゃないかと思って、気の毒になるんです。
 お稽古を始めて5年ほどたってから、「分(わけ)」をもらい置屋主になりました。分家のことですね。私が勤めていた置屋(芸妓が所属する事務所)が「浪柳」という屋号で、その分家なので屋号は「分浪柳」になりました。当時は伊東に1200人ほどの芸者がいて、夜になれば「カランコロン」と下駄の音が温泉場に響いていて。とても賑やかで、優雅な時代でした。
 置屋主といっても、仕事の内容はそれ以前と変わらず、お座敷で踊りを披露したり舞台に出たりしていました。それに加えて、県や市、観光協会などの会合に参加する機会をいただき、お座敷以外に芸能のイベントなどに出演することが増えていったんです。東海館まつりや按針祭、祐親まつり、花笠踊りなど地元の祭りの他、県外に出かけることもたびたびでした。後に伊東芸妓事業連合協同組合が発足するのですが、理事長らが私たちの紹介を兼ねて様々な場を設定してくれたんです。

「お座敷文化大學」で芸者の新たな役割に挑戦


 伊東だけのことではありませんが、時代の移り変わりとともに温泉場の活気が失われつつあることは実感しています。今はお座敷に出るだけでいい、という時代ではない。けれど、私たちは、何かのせいにするのではなく芸者にできることがあるのではないだろうかと考えました。
 そこで生まれたのが「お座敷文化大學」です。2000年に伊豆地域で行われた新世紀創造祭の一環として、1999年秋に立ち上げました。お座敷に縁がなかった方々にも気軽に楽しんでいただき、文化を広げられればと考えたんです。お座敷文化大學では、芸者衆によるお化粧や着付け、記念撮影などを楽しんでいただけるほか、お座敷芸の実習などもあるんですよ。これまで、修学旅行生から80歳過ぎのおばあさん、外国人の方まで、たくさんの方に利用していただいています。外国人の方にはとくに好評で、皆さん本当に大喜びしてくださいます。着物はなかなかサイズが合わないので専用の着物も作ったんですよ。
 今では、おかげさまで広く受け入れていただけるようになりましたが、当時は芸者衆の中に「これは芸者の仕事じゃない」という声もあったんです。見栄をはりたい気持ちも分かるし、悪気があるわけではないんですけどね。だけど、私は「じゃあ、芸者の仕事って何?」と思ったんです。目的は、伊東温泉に来ていただいて、楽しんでもらうこと。そこから、旅館に泊まっていただいたり、おみやげに干物を買っていただいたりすることに繋がるかもしれない。伊東で生活をさせてもらっているんだから、どこかでこの街に貢献したいという気持ちが強かったんです。ですから、伊東の宿泊施設を利用してくださった方には料金を割引するサービスも行っています。座敷で踊りをやるだけが芸者じゃないんですよ。立ち上げから10年、意地を張ってやりました。頑張りましたよ。また、ここでもいい仲間に恵まれて誇りに思いますね。今は、私たちが続けることで後ろに繋がっていくのではないかと思っています。

後輩の育成に力を注ぎ、お座敷文化の継承に貢献

 近年では、台湾と上海で踊りの披露をする機会もありました。上海では、万博会場にあった日本館で3回くらいやりました。8月で本当に暑くて、汗が飛び散っていましたよ。台湾では、みんなでタクシーに乗ったら、車内が狭くてかつらが天井にぶつかっちゃったりもして。私は顔を傾けなくてはならなくて、運転手さんをずっと睨んでいました(笑)。後部座席に座った子たちは頭を後ろに反らしていましたよ。まあ、大変なこともありましたけど、PRもできましたし、評価もしていただいて、いい経験をさせていただきました。
 気づけば、芸者になって40年近くが経ちましたが、まだまだ現役を続けるつもりでいます。毎日違ったお客さんと対話ができること。それが一番好きなんです。気持ちのよい対話はその心地よさがそのまま私に跳ね返ってきて、元気をくれるんですよね。
 それと同時に、後輩の育成にも力を注いでいます。「もてなし」とは何か、なんて聞かれたりもするんですが、私は「ドアを開けるときに足で蹴らなければいいのよ」なんて答えているんです。もちろん、必要とされる知識や技術はありますが、もてなしとは作るものではないと思います。自分が楽しむことが一番大事。私が楽しければお客様も楽しいのではないかと思いますね。そして、後輩たちのためにも、地元のお客様などに声を掛けて、少しでもお座敷の場を作っていただけるよう働きかけをしているんです。新しいことに挑戦しながらも、伝統を受け継ぐことが大切ですから。お座敷の文化を継承することを忘れないようにしています。芸者衆がいない温泉場なんて寂しいですからね。
 今は無駄だと思うことがあったとしても、続けていればいつかは帰ってくると思って、地道にやっていきたいです。若い子たちが切り盛りできるようになれば引退してもいいかなと思いますが、まだ楽しみたいからそのうち杖をついて来るようになるかもしれませんね。80歳過ぎのおばあちゃんが、現役で三味線を弾いているのを見るといいなあ、と思うんです。私もそうなっているかもしれませんね。そんなことを考えると毎日が楽しいです。

取材日:2011.1



徳島県生まれ  静岡県伊東市在住


【 略 歴 】

1971頃 温泉検番 浪柳へ
1977頃 分をもらい置屋主になる(分浪柳)
1997 伊東温泉芸妓事業連合協同組合発足 芸能部長就任
1999 新世紀創造祭の一環として、「お座敷文化大學」立ち上げ
2003 第1回伊東温泉東海館まつり開催
2008 台湾にて開催の伊東市誘客行事に参加
2010 上海万博 日本産業館にて芸妓踊り披露
お座敷文化大學 文化祭 開催

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