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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

知的障害者の「生きる力」をアートで伝えて
「こんな生き方もアリ」という社会をクリエイトする。

久保田翠(くぼた・みどり)

久保田翠(くぼた・みどり)



NPO法人 クリエイティブサポート・レッツ 理事長
障害福祉施設 アルス・ノヴァ 施設長


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NPO法人 クリエイティブサポート レッツ
たけぶんブログ

仕事を諦め子育てに専念して母親になれた

 高校時代から仕事に対する憧れがあって、女性でも一生仕事をしようと思っていました。大学を卒業する年に、男女雇用機会均等法が施行されましたから、社会的にも働く女性の道が開け始めた時代でしたね。父が設計事務所をやっていた影響で、大学では建築、大学院では環境デザインを専攻しました。
大学院の修士課程を修了した後、就職はせずに、妹と一緒に静岡市で「環境・空間・デザインAMZ」という会社を立ち上げたんです。地元ですし、父の仕事のつながりもあって、思ったより早く仕事は軌道に乗りまして、まちづくりのコンサルティングや街並みや公共施設の景観デザイン、学校の外溝デザインなどに携わりました。
 当時は、自分のなかに結婚とか子育てのイメージはなかったんですけれど、たまたまいい人に出会って、先のことはあまり考えずに結婚しました。28歳のときです。結婚して1年後に長女が生まれました。
 生後3カ月ぐらいになれば、保育園に入れて、何とか仕事に復帰できると思っていたんですね。ところが子供ってそんな思うようにいかない。3カ月頃から、母乳は飲むけれど、ミルクは飲まない子になってしまった。多分、母親が自分から離れてくことがわかったんでしょうね。よく泣くので、子育てが嫌になっていたとき、「このままじゃ母子関係がうまくいかなくなる」と、実家の母に怒られたんです。「あなたの仕事は取り返しがつくだろうけれど、母子関係の取り返しはつかんよ」と、ものすごく怒られました。
 それで仕事は妹に任せて、1年間、育児に専念することにしました。妹には迷惑をかけましたが、娘はそこからとても穏やかになったんです。不思議ですよね。母乳が出にくいので、マッサージしたりして一生懸命出して……。私はその辺から本当の意味で母親になれたのかもしれません。
 子育ては夫と一緒にやりました。夫はその頃、体調を崩して会社を休んでいたのですが、娘のおかげで本当に元気になって。娘が1歳になったのを機に、料理人として浜松で自分の店を開くことになり、静岡から浜松に引っ越しました。

準備万全で臨んだ2度目の出産だったが……

 私の人生は、なかなか思惑通りにいかないのが常というか、真っ直ぐ道を敷いたつもりでも、歩きだしてみると方向転換を余儀なくされてしまう。そういうことには結構慣れている気がします。夫が身体を壊したり、会社を辞めて独立したときも、自分が少し我慢するというか、ちょっと変わるしかないかなと思いました。 よく言われることですが、娘ができたことも人生が変わるきっかけでした。仕事に費やせる時間は少なくなりますし、独身のときのように、あれもこれもはできません。「本当に好きなことは何だろう」と考えて、やはりデザインをやろうと。それでAMZは妹に委ねて父の設計事務所に入り、浜松で環境デザイン部門を始めることにしました。
 2番目の子を出産するときは、1年間ちゃんと休んで復帰できるよう準備しました。保育園も手配して準備万全。「じゃあ産んできまーす」みたいにして産休に入ったのですが、今度は障害のある子が生まれた。
 息子は生まれたとき口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)でした。500人に1人ぐらいというそれほど珍しくない病気で、「とにかく手術です」と言われました。名医を紹介していただいて訪ねて行ったら、息子を見てすぐに「お母さん、隠してもしょうがないので言いますが、お子さんは知的障害がありますよ」と言われたんですね。「知的障害?」って感じでした。口唇口蓋裂は、1年半かけて3~4回手術して治しまして、「じゃあ次は知的障害の名医を探そう」と、いろんな病院に連れて行きました。その結果わかったことは、「知的障害は治らない」ということです。

自分の存在が社会から消されたという孤独感

 息子は娘のときとは育ち方からして違いました。なかなか大きくならないし、ものすごく身体が弱い。しょっちゅう病院に連れて行かなければならなくて、体が弱いうえに障害もあるので、保育園もなかなか預かってくれない。わずか10数年前のことですが、当時は今より受け入れ態勢が少なかったんです。
 そのうち浜松市内にある根洗学園が、障害のある子どもだけを預かって療育していることを知って、そこに3年間預けました。でも毎日3時ごろには帰って来るし、夏休みや冬休みもあるので、仕事への復帰は難しかった。
 障害はあっても息子は可愛いし、じっくり育てる楽しさもありました。でも、自分が社会から消された感じがあって、「私はいったい何をしているんだろう」という焦燥感や、「皆私を忘れて行くんだろうな」という孤立感にさいなまれましたね。
 子供を虐待する親が新聞やテレビで取り沙汰されますけれど、ああなってしまう原因の一端は社会にあると思いますね。子育てというのは過酷だし、孤立しやすい。そうでなくても、現代社会はつながりが希薄で孤立するのは簡単ですから、大きな苦しみを抱えている人が、気がつけば、誰にも頼れない状況に陥っているということはあると思うんです。

障害児をもつ母親の自己実現を阻む日本社会

 なかなか仕事に復帰できなくて、いつも心のどこかで「仕事をやり残した」という気持ちがありました。「何とかしたい」と思っていたとき、静岡大学から講師の話をいただき、「是非やらせてください」と、二つ返事でお引き受けしたんです。
 ただ、そのためには子供を預けなければならない。市内のいろんな施設を回ったのですが、行く先々でいろんなことを言われました。息子は3歳になっても歩けなくて、寝かせたままでしたから「こんな小さい子を預けるなんて」と、母親である私が悪者みたいに言われてしまう。「お母さんが自己実現したいのなら、入所施設に入れた方がいいですよね」とも言われました。
 仕事を諦めるか、入所施設かというのは、あまりに極端な選択しですし、2つの選択肢しかないのはどういうことかと市役所に行ったら、「働いている方は、ご家族が面倒をみているんです」と。そういう時代なのかと愕然としましたよね。
 私がそれまで生きてきたのは、男女雇用均等法もできて「女性もどんどん社会でキャリアを積んで」という「世界」です。障害のある子どもをもつ母親になったとたん、住んでいる世界が変わってしまった。一体どういうことなのかと、怒りを感じましたね。
 それで、根洗学園のお母さんたちに呼びかけて学童保育を作ろうとしたんです。でも学園に相談したら「皆さんがあなたみたいに元気なお母さんではない」と怒られてしまった。子供の障害を受け入れられず悩んでいるお母さんもいるのだから学園としては協力できない、個人でやってほしいと。仕方ないので、仲のいいお母さんに声掛けることから始め、いろいろなツテも頼って、7人のグループを立ち上げました。
 同時に、障害のある子どもをもつ先輩お母さんに話を伺っていくうちに、子供に障害があると、親はなかなか社会参加できないということがわかってきました。お母さん自身は仕事もしたいし社会参加もしたいけれど、子供の居場所がないのに、自分ばかり好きなことはできないという方がたくさんいた。つまり、障害のあるお母さんたちが社会参加できないのは、社会そのものがそれを許していないからだということが、わかったんです。

健常者中心の「世界」に対する怒りが原動力

 息子が生まれて、私はこれまで気付かなかった世の中の一断面を知りました。「障害者の母」になると、子供を見て「かわいそうですね」って言われるんです。息子と一緒に私も「かわいそうな母親」になってしまう。私にとってそれはものすごく心外でした。私は自分のことをかわいそうって思ったことないのに、道行くおばあさんなんかに「あら大変ねぇ、かわいそうに……」と。私は普通に子育てしたいのに、周りがそれを許してくれない。
 いちばん嫌な思いをしたのは病院です。「障害があっても大江光さんみたいになってくれたらいいなと思うんですよね」と言ったら、担当医の方が「なれませんよ。お宅の息子さんは無理です」と。確かに知的なレベルは違います。それはわかっているんです。でも親としてはわらをもつかむ思いで、少しでも希望が欲しいわけです。子供に希望をもつのは、どんな母親だって同じですよね。でも、障害があるというだけで、それが否定されて、絶望の淵に突き落とされる。
 同時に、自分が今までいかに恵まれた環境にいたか感じましたね。学歴やキャリアなど、私が一生懸命勉強して獲得してきたものは、もちろん努力もありますが、それ以上に、生まれながらにして健康な身体を授かったおかげだということに気付きました。
 障害者の世界を知って、厳しい現実を目の当たりにして、今まで生きてきた「世界」とのギャップに打ちのめされると、私の場合、怒りを感じます。その怒りのエネルギーが全部、今の活動につながっていくんですよね。「このままは許せない。何かしなきゃ」と。

「レッツ」を生んだエイブルアートとの出会い

 息子は重度の知的障害で、ひとりでご飯も食べられないくらい何もできないんですけれど、小さい頃から音楽にだけは反応するんです。障害は重くても感性ってあるものなんですよね。なので、普通の子みたいにいろんなことに挑戦するのはムリでも、彼がもっている限られた能力を伸ばしてくれる場所を探しました。
 いろんな音楽教室に相談に行ったんです。「いいところだけを伸ばしてくれればいい、足りない能力を伸ばしてなんていうことは思ってませんから」と説明して歩いたのですが、「うーん」と困った顔されてしまって……。あちこちの音楽教室に行きましたが、なかなか見つからない。リトミック教室でも、音楽をやっている間はいいのですが、「今から絵本見ましょう」となった途端、息子はついていけなくなってしまう。
 そんなとき偶然、障害者のアート「エイブルアート」の存在を知ったんです。障害とアートが結びつくこと自体、目から鱗(うろこ)でしたね。エイブルアートの講演会を聞きに行って、そこで関根幹司さんに出会いました。関根さんはエイブルアートの先駆者で、現在は福祉施設「studio COOCA」を運営しています。私にとって、今では師匠のような存在です。
 エイブルアートとの出会いで、「私にできる世界」がようやく見つかりました。目の前がパーッと明るくなりましたね。それまで悶々としていたんです。「何とかしなきゃ」と思いながらも、自分から遠い福祉という世界にいきなり飛び込んでいく自信がなかった。でも、アートなら私にもできると、関根さんたちの講演会を聞いた帰りの新幹線で、一気に企画書を書き上げて、「クリエイティブサポート・レッツ」のコンセプトができあがったんです。

アートなら障害者も同じフィールドに立てる

 2000年に「知的障害者クリエイティブサポート・レッツ」を設立し、2004年にNPO法人化しました。アートや音楽のイベントや絵や音楽の講座などの活動を通じて、障害のある人だけではなく、その家族や地域の人たち、アーティストなど、さまざまな人たちとの接点が生まれました。レッツの会員は現在200人を超えます。
 レッツのさまざまな活動をとおして感じたのは、障害者と言われる人たちが、生まれながらにとても豊かな文化性をもった人たちだということ。知的な能力に限界はあっても、独自の生き方や価値観という点で、揺るぎないものをもっているんですよね。
 既存の社会規範のもとで障害者は「守ってあげなければならない人」であり、「あまり接したくない人」という固定観念もあります。それを変えるのはものすごく大変なことですけれど、少なくともアートというフィールドでは、「あいつ障害者だからね」みたいなことは言われません。障害があるからこういう絵が描ける、こういう表現ができる、こういうことが起こるみたいに、1つの個性として捉えてもらいやすい。障害があることでの個性や感覚を、いちばんわかりやすい形で伝えられるのが、アートじゃないかと思っています。
 また、アートには「人と人をつなぐ力」もあります。2008年にレッツが開催した「浜松アートフォーラム」でも、そのことを強く感じました。アートを介することで、地域とさまざまな人たち――障害者も健常者も子供からお年寄まで、うまくつながることができるんです。

障害者の個性を伸ばす「アルス・ノヴァ」

 レッツの活動を始めて10年がたった2010年、障害福祉施設「ARSNOVA(アルス・ノヴァ)」を立ち上げました。私たちがさまざまなアートイベントで追求してきたのは、「障害者も健常者も分け隔てない世界」や「障害者につながりが生まれる地域活動」、いわゆる「インクルージョン」です。しかし皮肉なもので、イベントが注目を集め、インクルージョンが功を奏するほど、レッツの趣旨がわかりにくくなるという懸念が出てきたんですね。
 イベントは、古今東西の祭がそうであるように、「ハレ」の場のカンフル剤としてときには必要です。しかし、ベースの部分には「日常」を持ち込むことが必要だろうと。それがないと、実体がないというか、どうしても浮いた感じになってしまうんですよね。
 それで、レッツの活動を2部門に分割し、障害者の社会的な地位向上を目指すのが「アルス・ノヴァ」、アートイベントや講座を通じてソーシャル・インクルージョンを行なうのが「たけし文化センター」とすることにしました。
 アルス・ノヴァには毎日、障害のある人たちが集まって来て、一緒に何時間か過ごしています。いろんなことが起こりますが、彼らがここに生活をもち込んでいることに対して、安心感がありますね。アルス・ノヴァは一般的な福祉施設とは違って、皆で一斉に行う作業はありません。それぞれの好きなこと、できること、興味があることをヒントに、1人ひとりに合ったプログラムを作っています。そのうえで彼らの社会的地位の向上を目指すのが、大きなミッションです。
 福祉施設というのも、一種の「世界」なわけで、なかには、既存のあり方に「はまらない人」もいます。福祉の世界では、そもそも「働く」ことに対するイメージも貧困なんです。「障害者の仕事」イコール「下請けの単純作業」みたいに、健常者でも辛い仕事を黙々とやらなければならない。「はまる人」はいいでしょうが、当然「はまらない人」もいるわけです。そういう人たちは、施設に行っても、1日ただボーっと過ごすしかない。
とは言え、福祉施設の作業ができたところで、経済的な自立は難しいわけです。部品の組み立て作業にしても1つ何銭という世界ですから。

福祉施設が変われば障害者の人生も変わる

 息子は今、中学3年生です。最近も特別支援学校の高等部の見学会があって、カリキュラムを見せていただいたら、月曜から金曜まで1日約4時間が作業訓練で、音楽や美術は1週間に1度。そういう学校のカリキュラムや、障害者教育のあり方そのものを変えたいと思っていましたが、これまではどうしていいかわかりませんでした。
 でもそれぞれの能力や個性にあった仕事ができるアルス・ノヴァのような就労先が増えていけば、学校でも一律に作業訓練をする必要はなくなるかもしれません。
 息子は中学の3年間で、ちゃんと座ることができるようになりました。毎日、先生がマンツーマンで指導してくれた成果だと思いますが、そんなに恵まれた教育環境であるなら、彼が唯一、興味を示す音楽を伸ばす指導に替えられないかと。実際は1日のほとんどの時間、タッパーのような箱にサイコロ大のキューブを入れていく作業訓練をして、中学の3年間が過ぎたわけです。でも、それではもったいないと思うんですよね。
 でも、アルス・ノヴァが息子の高校卒業後の受け入れ先になれば、私たちから高校にカリキュラムについてリクエストが出せると思うんです。スタッフは息子をパフォーマーにする支援計画を考えていますから、高校では音楽を中心に指導してほしいと、受け入れ施設として要望を出せば、カリキュラムを変えられるかもしれない。同じことが、他の障害をもつ子どもたちに適用できると思うんです。
 アルス・ノヴァを作ったときには気付かなかったのですが、障害のある人たちの就労スタイルを変えることで、特別支援学校、さらには障害のある人たちの生き方を変えられる可能性があります。「やっと自分がやりたかったことができた」と、思っています。

「人間の幸せとは何か」突きつけられる日々

 息子が生まれるまで、一流といわれる大学に行って、建築の世界で有名になって……そんな月並みな理想の人生を思い描いていました。でも、障害者に接しているうちに、実はそういうことは「どうでもいいこと」、つまり人間が生きていくうえで幸せにつながるわけでないことに気付きました。学生時代や仕事をとおして学んできたことは、息子を育てていくうちに、木っ端みじんに打ち消されましたね。「人間が育つ」ということや「幸せに生きていく」ということは、学問として学べるようなものじゃない。
 「人間の幸せって何だろう」ということは、いつも考えさせられますね。お金ではないし、時間でもない。思うに、「内側から湧き出てくる何か」を実現させていくことじゃないでしょうか。そういう力は実は誰にでもあって、その「何か」を素直に、ひたむきにやっていくことが、人間を幸せにする。――私はそのことを、息子から日々感じています。
 息子は喋ることもできないし、誰かと交流してそれが喜びにつながるということもほとんどありません。母親ながら、何を感じているのか全く分からない部分もたくさんあります。でも、缶や箱に小石を入れてカラカラ鳴らしているのが大好きだったり、誰かがギターを弾くと真っ先に反応して踊り出したり。音楽については「こうしたら、きっと反応するだろうな」と思うとき、ピタッと反応する。好きなものに向かうエネルギーが、ストレートでシンプルなんですね。
 人間は本来、そういうもの思うんです。でも、これはお金にならないとか、こんなことしたら恥ずかしいとか、そういうことで辞めてしまう。そうすると、あるとき「自分って何なんだ?」とわからなくなってしまう。息子の音楽に対するストレートな情熱や執着を目の当たりにするたびに、「自分にとっていちばん大切にすべきものは何なのか」、そう突きつけられる気がします。

「アーティストを育てている」という気付き

 障害のある子どもと向き合うということは、キレイごとではいかない部分もあります。息子は自分の便をこねて、壁にベタベタとやるのが大好きなんです。それをさせないために、今はやむをえず、つなぎを着せているんですけれど。
 もう、どうしようもないという状況で、私が「わけわからない」とパニックしているそばで、息子は相変わらず箱の小石を幸せそうにカラカラと鳴らしている。いくら怒っても、「ハハハ」と笑ってるだけの息子を見たとき、便でさえ、この子の表現の1つだと思ったんですね。何の自覚もなくこの子はアーティストだと。しかも私と同じ感覚ではないアーティストなんだと。
 つまり、私はアーティストを育てているんだ――そう思うと決断したら、気持ちがちょっと楽になりました。私にとっての「アート」とは、そういうものです。どうしようもない状況のなかで、どうしようもない状況を生きる力に結び付けるために存在しているもの――それが私にとってのアートです。私が信じるものでもあります。
 自分のエネルギーをマイナスに向けることはいくらでもできると思います。息子を殺して、自分も死ぬとか、人はあまりにも追い込まれてしまうと、おかしなことを考えははじめます。楽しいという気持ちがなくなって、怒りとか苦しみが、すべての根源になってしまう。
 でも人間は生きていかなきゃいけないし、生きるってことはやっぱり素晴らしいと思うんです。息子も、周りの私たちは大変でも、本人は至って関係なく楽しそうに生きている。その姿を見ると、「人間ってスゴイな」と。疲弊している私を前に、「ハハハ」と笑ってる息子を、理由もなくスゴイと思えるんです。「人間はなぜ生きるのか」ということに対する答えなんか見つかりませんけれど、とりあえず現在の社会で信じられている価値観と全く違うところがスゴイ。お金とか地位とか名声とか生活の便利さとか、そんなもので人間の幸せは成り立っていないと、息子が私に教えてくれた。

「生きる力」を健常者が障害者に学ぶ時代

 どんな人にも「その人が生きている証」っていうものが、何かあるんだと思うんです。その人にしかできないこと、その人なりのことって言うのが、いっぱいあるはずで、そこを大切に見つめていかないと、生きていくことが困難になるように思うんです。もちろん障害のある人自身は「自分の生きた証を残したい」とは思ってないでしょうけれどね。
 人間が幸せに生きるということは、意外にシンプルなことだと思うんです。人とのかかわり方ひとつとっても、皆、気を遣いますよね。気を遣いすぎて病気になる人もいる。そういう気の遣い方というのは、本来、その人らしくないと思うんです。周囲に良く思われたいとか、そういうことで動いているから、自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。
 うちの息子はそれとは逆に、極端な形で「自分」をもっている。誰に迷惑がかかろうが、親が殺したくなるくらい追い詰められていようが、「ハハハ」と笑っているわけですから。超自己中心的だけど、人間の本質的なものを感じるわけです。「やりたいからやる」「生きたいから生きる」――ものすごく強いエネルギーを感じます。
 障害の有無というくくりではなしに、世の中にはいろんな人、いろんな価値観をもつ人がいるということを、実感としてわかってもらいたいと思っています。レッツはそのために、障害のある人たちをもっと社会に出す活動をしています。もちろん社会には最低限のルールは必要です。でも、自分とは違う生き方や考え方、生活の仕方を排除することはしないでほしい。「そういうのもアリだよね」という社会になればいいと思う。
 日本だけでなく世界を見渡してみても、社会は病んでいく傾向にあります。心が病んでいる人や、人とつながるのが怖くて社会から孤立した人が増えています。それは、人間の「生きる力」というのが、弱まっているからだと思うんですね。障害をもつ人には、抜群に強い「生きる力」があります。そういう点では、私たち健常者と呼ばれる人たちが、障害者に学ぶ時代なのかもしれません。

取材日:2011.1



神奈川県生まれ 静岡県静岡市育ち 浜松市在住


【 略 歴 】

1988東京芸術大学大学院環境造形デザイン科 修了
環境・空間・デザインAMZ 設立 
1993高木滋生建設設計事務所 環境デザイン 担当
1994高木滋生建設設計事務所 浜松事務所 代表
1999静岡大学農学部 非常勤講師 (~2009)
2000「知的障害児者クリエイティブサポート・レッツ」 設立
2004NPO法人「クリエイティブサポート・レッツ」 設立
2008 「たけし文化センター」を実験運営(~2010年3月)
2010障害福祉施設「アルス・ノヴァ」設立

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