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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

老いを生きる姿が、みんなを元気にする。
家族愛を演じ続ける「日本最高齢」の舞台女優。

大石さき(おおいし・さき)

大石さき(おおいし・さき)


劇団「ほのお」主宰



老人を励ます会から始まったアマチュア劇団

 私は戦後、中国から引き揚げてきまして、生まれ故郷の大洲村(現・藤枝市)役場の保健婦になりました。戦後の衛生状態は今では想像もつかないほどひどくて、妊娠中絶の増加とか赤ちゃんの死亡率が高いという問題もあったんです。消毒器をかついで村内の家を一軒ずつ回ったり、妊婦さんの栄養指導をしていました。 58歳で保健婦を定年退職した後は、福祉事務所の老人保健婦として、お年寄りの健康指導のためにあちこちの家庭を回りました。そこで気付いたのは、お年寄りの孤独という問題です。独り暮らし老人もそうですけれど、家族と同居するなかでの孤独というのもあります。

 それで、地域の民生委員さんたちと相談して「福祉と健康、2つの要素をミックスして地域の人たちを元気にするための啓蒙しよう」ということになったんです。民生委員というのは福祉、保健婦は健康というふうに、役割が分かれているんですが、この際、一緒に活動をしてみようと。 当時はまだ、民生委員が何をする人たちか、一般の人の間では理解されていなくて、民生委員が訪ねて行くと「あの家には民生委員が来た」、なんて近所の人に言われてしまう時代で、民生委員は人々に歓迎されない存在だったんですね。 私は私で、保健婦として長年、地域の人たちに健康のためのアドバイスをいろいろしてきたわけですが、言葉より劇にしたほうが伝わりやすわかりやすいんじゃないかと思ったんです。いろんな指導をしても、みなさんに理解してもらって、実行してもらわないと意味がないですからね。

 いちばん最初は、「一人暮らしを励ます集い」というのを企画しまして、話し相手のいないお年寄りたちを慰めるために劇をやりました。私も含め、民生委員と保健婦が全部で30人ぐらい集まって台本をつくったんです。「私らのような素人がやるんだから、ろうそくをボチボチともすような活動だよね」ということで、劇団の名前は「ともしび」にしました。1975年のことです。 ところが、初舞台にはお年寄りが50~60人くらい見に来てくれて、予想以上に大好評だったんです。その評判が広がって、あっちでもこっちでもやって欲しいという声が上がりました。87年に劇団名を「ともしび」から「ほのお」に改めました。こんなに喜んで見に来てくれる人がいるのなら、命燃え尽きるまで頑張ろうじゃないかってことで「ほのお」としたんです。ボチボチの「ともしび」が「ほのお」になっちゃったんですね(笑)。

解散宣言後も依頼が途絶えず今年で35周年

 実は25周年のとき、私も年だからもうやめようってことで解散宣言したんです。それがどういうわけか、解散宣言したのに「次は是非うちでも劇をやってほしい」っていう声があちこちであって……。そんなに言ってもらいますとね、私たちも「またやってみたいな」なんていう気持ちになってしまいまして、気がつけばまだ続けているんです。今年で35周年。県内だけでなく、全国各地で830回上演してきました。 でも、設立した頃からのメンバーは私だけになっちゃいましたね。みんな亡くなってしまって寂しいですよ。現在、メンバーは5人。私の娘とあとはお友達です。「一緒にやろうよ」って、私が頼んだんです。もともとは保健センター所長だったり、学校の先生、保健看護協会の看護婦、保健婦をしていた人たちです。

「ほのお」の活動の大きな目的は、命の尊さや家族の絆の大切さを伝えることです。具体的なテーマは、最初に依頼のお電話をいただいたときに「どういうお客さんで、どんな目的ですか」って聞きまして、それに合わせて決めています。若い人向けだったら、「年寄りはこういう気持ちでいるんですということを伝えたい」と、こちらから要望を出すこともありますね。保健婦としていろんな家庭を見てきた経験は、台本を書くときにとても役立っています。

 最新作の『生きる、生かされる、ありがとう』は、うつ病がテーマです。このタイトルは、私の座右の銘です。藤枝市から依頼があって、自殺防止キャンペーンのイベントが初演になるんですけれど、難しいテーマですね。うつ病とはどんな症状が出るのか、家族がうつ病になったら家族はどう対応するか、いろいろ考えて台本をつくりました。
 35周年を機に「もうやめようかな」って思うこともあるんですけど、「いや、舞台の上で死ねたら本望じゃないか」と思うこともあって……。身体は大変ですけどね。でも、また1つ新しい劇をやって、みなさんが見に来てくれて、拍手で迎えて下さって「しっかりやれよ」とか声をかけてくれる。それがものすごくいいんですよね。

貧しくても夢と希望があった少女時代の思い出

 私は子供の時分は医者になりたかった。だけど、家がすごく貧しくて学校も行けなくてね、14 歳で看護婦の資格をとりました。でも14歳で看護婦として働くことは認められなくて、実際には18歳のとき看護婦となりました。23歳で助産婦の資格を取り、34歳で保健婦の資格を取りました。医者という夢はかなえられなかったけれど、人々の健康に奉仕する仕事は、とてもやり甲斐がありましたね。

 書くことは小さいときから好きだったんです。ちょっとませてる子供だったかもしれないですね。昔は小学校が6年、それから高等科が2年あって、私の小学校では1クラス50人のうち、16人しか高等科へ行かなかった。食べるのがやっとの貧しい時代でしたからね。うちは農家で、農作業を手伝うという条件で私は高等科へ行かせてもらいました。女医で東京女子医科大学を創立した吉岡弥生さんとか婦人活動家の市川房枝さんとかに憧れましてね、親は「百姓は百姓だ」とずいぶん反対したんですけど、「百姓で終わりたくない」って反発しました。「百姓のおなごは百姓で終わるべきだ」「百姓の家に嫁入りすればいいんだ」と言われましたけど、私は農家の嫁はいやだったんです。

 今の中学生に「あなた何になりたいの?」って聞いたことがあるんです。そしたら「まだわかんない」って。何かおかしいですよね。私らのときには、もう小学5~6年のときから希望をもってたのに、何で今の子供には夢がないんだろうって思います。本当に情けない。なぜなんでしょう? やっぱり教育の仕方ですかね。昔は貧しいながらも夢をもちましたよ。昔の子供には夢があった。残念ですねえ。今の子供に夢を与えたいと思います。

家族愛が希薄な時代だからこそ絆をテーマに

 劇団を始めた35年前に比べても、世の中は随分変わっちゃいましたね。いちばん残念なのは、人情がなくなったこと。最近のニュースでも、おじいさんやおばあさんがいなくなったことを、一緒に住んでる家族が知らないなんて……それはいろんな原因があるんだと思いますけどね。私は今度、そういうテーマで劇をつくろうと思っています。

 昔と今では親を思う気持ちが違うと思いますね。「姥捨て山」というのがありましたけれど、「何もできない年寄りは捨ててしまえ」という殿様の命令に対し、子供は捨てることができなくて、捨てたふりをして、こっそり家へ連れ帰ってかくまっていたわけです。今は逆ですね。だって、「いないまま」なんておかしいじゃありませんか。いなくなったら探せばいいのに……。でも、探しもせず知らんぷりというのが、今の世の中なんですかね。

「嫌な人がいなくて清々する」ことを、静岡では「ごせっぽい」って言うんです。最近は3世代同居なんて言っても、1階に年寄り夫婦、2回は子供と孫という住み方になっていて、ご飯も洗濯も掃除も何もかも別です。それが若い世代のごせっぽい、年寄りがいないから清々するってことでしょうね。年寄りも同じような気持ちかもしれません。お互いにごせっぽいなんて、そんな同居はウソですよ。 同居っていうのは、みんな同じもの食べて、食卓でいろんな話してってことでしょ。家族や親子の愛情も希薄になりましたねえ。だから、私たちは家族の絆をテーマに劇をやってるんですよ。

子供や若者とも話ができる老人でありたい

 世の中も随分と変わりましたね。だから、それについていくのは、それを理解するのは、なかなか難しい。昔はこうだったよなあと思ってみたり、自分はあまりに昔のものに執着しちゃっているのかなと思ってみたり。 昔のことばかり言う老人はダメですね。やっぱり若い人たちの意見を聞かないと。だから若い方とお話するの、大好きなんです。少しでもいいから、今の若い人たちの気持ちを聞きたい。

 それでね、「ひまわり」って会を作って子供との交流をやってます。50人ばかり会員がいます。この間も小学5年生の子供たちに、敬老会が取材したんですよ。 「あなたたち、おじいちゃんやおばあちゃんはいる?」って聞いたら、「いる」と。でも、「おじいちゃん、おばあちゃんとお話するの?」って聞いたら、「しない」って言う。
「だって一緒にいるんでしょ」
「いるけど、しない」
「なぜしないの?」
「だって用ないもん」
用事がないから話をしないとは……と思いましたね。後ろのほうに、その子たちのお母さんがいたんです。30歳くらいでしょうかね。で、私聞いてみたの。「お母さん、あなた方がしないんでしょ」と。子供は親の背中を見ますからね。

「あなた方がおじいちゃん、おばあちゃんに対して、そういう気持ちでいるから、子供さんも同じように思う。年寄りはやさしい言葉に飢えています。どうかやさしい言葉をかけてあげて」と言ったら、お母さんたち下を向いちゃった。「これからは気をつけます」って言って帰っていったお母さんもいましたね。

「ばあちゃんの手は温かい」というメッセージ

 何年か前、東京・練馬の幼稚園から電話がかかってきて「なんでもいいから、来てくれ」って言われて、朝早い電車で出かけたことがあります。300人くらいの大きな幼稚園でした。ちょうど3月でおひな祭りやってましてね、私らはお下げ頭に、絣の着物で兵児帯しめた昔の子供の格好をして、一緒に歌ったりお遊戯したりさんざん遊んで。 帰りぎわに園長先生が「子供の手を握ってください」って言うのね。それで300人の子供たちと握手した。そのとき先生が「どうだった?」って子供たちに聞いたら、「温かかった」と。

 なぜかこんなことをしたかというとね、都会の子供たちのなかには、元気なおじいちゃんおばあちゃんに会ったことがないという子がいるんです。年寄りが生きるか死ぬかっていう状態になったときでなければ、田舎まで会いに行かないんだそうです。だから、年寄りの手っていうのは冷たいもんだと思ってる。でも私たち手は温かかった。園長先生はそのことを味わわせたかったんですね。

「今の子供は死ということを知らない」という問題もありますね。人は死んでしまうともう戻ってこないということを知らないんです。なので「死」をテーマにした劇を、子供たちに見せることもあります。

老いを前向きに受け止めるために始めた日記

 老いというのは不思議でね、定年退職したときに「ああ、私はこんなに年とっちゃったんだなあ」と思ったことを覚えています。そうやって自分の老いというものを背負ってね、ここまで来たんです。今にして思えば、60歳のときと70歳のとき、さらに80歳、それで今90歳と、全然違うんですよ。年をとるほど、孤独感が増してきますね。 孤独というのは、金銭の問題じゃないです。お金があるから、たくさんモノがあるから、それで幸せとか満足とかじゃないんですよ。自分の寿命がね、だんだん先が短くなっていくのはね、寂しいです。あと体力の衰えね。今まで朝目が覚めるとパッと飛び起きた。それが今では起きるのがもうやっとですよ。毎日、自分にムチ打っています。

 でもね、そういう老いの姿を、孤独とか寂しさも含めて前向きに受け止めようと思って、このごろ毎日のように「老いの日記」というのをつけてるんです。面白いもので、「今日は嫌だなあ、寂しいなあ」と書いたかと思えば、次の日は「こんなことで負けてたまるか」と思ったり……人の気持ちは毎日変化しますね。「なぁに、これしき」と思って見たり「もうだめだぁ」と思ってみたりね。そういう変化を、1日1つずつ、死ぬまで続けたいですね。

 例えばね、こんな感じで書いているんです。 「手のしわ 茶色の斑点 肉が落ちたひびだらけのこの腕 これでも何かやってみようとする 自分の老いを私は楽しもうとして追い続けたい しみじみと自分を見つめる」 その次の日はですね、「なんだか急に寂しくなって 胸がちくちく痛む 私はこのまま死ぬだろうかしら 死がちらつく目の前に 知っている人がいない あの世へ行って あの世ってあるだろうかしら? 私はないと思う だって戻ってきた人がいないんだもの」 「暑い 何回言っても暑い 暑いのに今年は異常な暑さ 年をとるに従って 全身にこたえる 熱中症になって だんだん衰えるような もっと元気を出して 勇気を出してもダメだ 自分で自分の心にゲキを飛ばす がんばれ がんばれ 老いよ 痩せた肉に鞭を打つ」

昨日のはですね、「今日も暑い いつもなら赤トンボが飛んでいるのに どうしてだろう 電話のベルが鳴る あら劇の依頼かな こんな老人劇団に笑えてくるときもある 感謝する ありがとう 生きる力を与えてもらって」 誰もが年をとるんです。誰もが老いるんです。みんなに死があるんですからね。「ダメだ」と思ったときは、「老いの日記」を書きながら「こんなことじゃ!」と自分で自分の心に言い聞かせてる。本当に。

今日も「生きる、生かされる、ありがとう」

 よく、長生きと健康の秘訣はなんですか?聞かれることがあるんですけれど、私はただ認知症になりたくない、寝たきりになりたくない、みなさんにお世話になりたくない――それだけです。年をとればだんだん脳の働きが弱くなってくるし、体の自由が利かなくなります。

 この間、転んじゃったんですよ。近所のスーパーへ買い物行きましたら、ズーッとすべっちゃって、起きられなくなっちゃったんです。店員さんが起こしてくれたんですけど、「あぁ骨折しちゃったなあ」と思いましたね。骨折したら寝たきりになってしまう、寝たきりになれば認知症になってしまう。覚悟しましたよ。でもレントゲン撮ったら、大丈夫だった。良かったですよ、折れてなくて。

 私は、劇とか「ひまわりの会」とかがあって、長生きさせてもらってるんです。これがなかったら、おそらく、もうあの世にいってたかもしれませんね。人間、やっぱり希望をもたなくちゃいけないです。
 私の座右の銘は、「生きる、生かされる、ありがとう」。生きなくちゃいけない。だけど、みなさんにお世話になんなくちゃいけない。そんなふうに生かさせてもらっているから、毎日感謝してます。みなさんのおかげです。

「ほのお」をやってなかったら、私のような年寄りを訪ねてきてくれる人、きっとありませんよ。でも、若さっていうのは取り戻すことができないものですからね。老後というのは厳しさってこと。でもみんな必ず老後がきます。だから、老いの準備を、50歳くらいからね。趣味をもちなさいよ、と言っているんです。
 いつか私、「老人」に腹が立って、こう言ったことがあるんです。「60代でデイサービス行って、みんなに遊んでもらって税金使って。それは若い衆が出してくれている税金ですよ。60代なら自分で遊べばいいじゃないの」と。自分でやるのが大事なんですね。 とにかく後ろ向いちゃダメ。昔のことばかり言ってちゃダメ。毎日とにかく前へ前へと進んでいかないと。

取材日:2010.08



静岡県藤枝市生まれ 藤枝市在住


【 略 歴 】

1916 静岡県に生まれる
1929 看護婦養成所で学び、18歳で正看護婦に
1934 助産婦の資格取得
1941 結婚。夫とともに中国へ
1945 敗戦。中国より引き揚げ静岡県に戻る
1950 地元の保健婦として勤務
1975 保健婦を58歳で定年退職
劇団「ともしび」を結成
1987 劇団「ほのお」に改名
2001 解散宣言するが、出演依頼が続いたため活動を継続

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