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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

初の自治会女性役員を務め上げたことで、
地域活動とボランティアに目覚めた行政書士。

曽根順子(そね・じゅんこ)

曽根順子(そね・じゅんこ)


行政書士
掛川市自治会女性役員連絡会 代表
防災ボランティアコーディネーター



自営業の厳しさを味わった最初の3年間

 行政書士の資格を取ったのは、夫の勧めです。高校卒業後、銀行に勤めていたのですが、20歳のときに結婚して専業主婦になりました。身体が弱かったので「自宅でできる仕事がいいんじゃない」と言われまして、退職を機に勉強を始め、1年ぐらいで資格を取りました。
 行政書士の仕事は、官公庁に提出するいろいろな書類の作成と申請ですね。行政書士が作れる書類は3,000種類くらいあると言われていて、専門分野は多岐にわたります。資格を取るときは全般を勉強し、その後、自分で専門性を深めていきます。
私はおもに建築業許可に携わってきました。お客様は建設業者さんです。この分野を選んだ理由というは特になくて、よくわからないまま何となく選んだというのが本当のところです。質の高い仕事をするためにも、分野を絞って経験を積んでくることができたのは良かったと思います。
 一般的には、資格を取った後、書士事務所に数年間勤務して修業を積むのですが、私はすぐに独立開業しました。珍しいケースだと思いますね。「何とかなるかな」と思って始めてしまったのですが、正直、そのためにいろんな回り道もしました。開業したての頃は、近所にいらした先輩格の先生に随分お世話になりました。すべて自己責任という自営業の厳しさを味わいましたね。
 何とか仕事が回り始めたのは、開業して3年目くらいからでしょうか。申請許可ができるだけ早く下りるよう、とにかく書類の正確さに努めてきました。比較的早い段階から先行投資で電子化に対応する経営努力もしましたね。口コミで少しずつお客様が増えていきました。あと建設業許可の場合、一度依頼を受けたお客様から、繰り返し仕事を依頼されるケースも多いです。

夫の支えがあったからこそ続けてこられた

 最近は、行政書士1本で食べていくのはなかなか難しいと聞きますが、おかげさまで何とか(笑)。行政書士になって20年以上たちますが、この仕事が根本的に好きでないと、なかなか続かなかっただろうと思っています。
あとは夫の支えですね。今でもいちばんの理解者は夫です。行き詰ったり、落ち込んだりしたときには励ましてくれますし、10歳年上ですが、家事は何でもやってくれます。
 実は私は小さい頃から虚弱体質でして、「出産や育児はムリ」と医者から言われていたんです。夫はもちろん、そういうことを全部わかったうえで私と結婚しました。資格を取ったらと勧めた背景には、そんな理由もあります。「専門性のある仕事はきっと生きがいにつながるよ」と言ってくれたんですね。
 でも、そういう事情を知らない周囲の人たちからは「どうして子供も産まないで仕事ばかりしているんだ」ということを、よく言われました。開業したのが22歳ですから、20代のころは特に「早く子供を産みなさい」と。それはもう、どれほどたくさん言われたかわからないくらいです。傷つきますよね。なぜそんなことを言われなきゃいけないか、女性が子育てをせずに仕事をもつのはそんなにいけないことなのか、疑問に思いました。

自治会に女性の発言の場が必要という気付き

 私は、今は島田市に併合されている金谷町で生まれ育ちました。掛川市に引っ越してきたのは2000年。西郷地区構江(かまえ)区というエリアで、人口が約800人、およそ200世帯が住んでいます。もともとは農村地帯で、宅地開発が進んだ結果、私たちのような新しい住民が増えています。
 構江地区自治会には15の「組」があって、自治会の役員は、各組がもち回りで担当することになっています。自治会には子供会、老人会、婦人部といった下部組織があるのですが、私たちが引っ越して3年目の2003年、うちの組に婦人部の部長・副部長の順番が回ってきて、組内の10軒の中から選出しなければなりませんでした。
 婦人会の仕事というのは、おもに公民館のお掃除とか、お祭りやバザーの準備と運営ですね。組内では2年前から人選を話し合ってきたのですが、間際になっても誰も手を上げない。それで、もう仕方ないと思って「私がやります」と立候補したんです。隣の奥さんが副部長をやってくださるというので一緒にやろうと。私は越してきて年数が浅かったので、「長く住んでいる方が一緒にやってくれるなら」ということで、気の合う隣の奥さんと2人でやってみることにしました。
 婦人部部長になって驚いたのは、自治会で女性の意見があまり反映されていないということです。女性たちから不平や不満は聞こえてきても、意見として取り上げられることはない。婦人部というのはあくまで自治会の下部組織で、自治会のメンバーは全員男性ですから、「何を言っても聞いてもらえない」という諦めムードが漂っていました。
 自治会役員と15の組の組長が月に1回集まる組長会議のときも、世帯主であるご主人に代わって奥さんが出席する場合、最初のあいさつで「代理で申し訳ございません」と言うんです。本当にびっくりしました。謙虚にも聞こえますけれど、男女が対等でないですよね。わが家では夫も私も対等ですから、「どうして申し訳ないんだろう?」と思いました。正直、それはちょっと違うだろうと思ったんです。でも、婦人部は下部組織で、自治会のルールに対し発言する権限がありませんから、何も言えなかったんですね。
 そのときに思ったのは、本当にいい自治会にしてくってためには、女性にも発言できる機会や場が与えられなきゃいけない、女性の力は絶対に必要だということです。いい自治会ということは、つまり住みやすい地域ということですね。でも婦人部の部長は1年が任期ですから、次の組の方に交替して、私の役目は終わってしまいました。  

「やるしかない」で挑戦した初の女性役員

 その2年後の2005年、当時の構江区長さんが「自治会に女性の役員を出したい」と言い出したんです。それ以前から「女性の自治会役員を」という案はあったらしいんですが、具体的に何も進まず話だけで終わっていたそうです。それがいよいよ女性の役員をということになって、「曽根さんにやってもらいたい」と言われたんです。もちろんお断りしました。そんな大役、掛川に越してきて年数も少ないし、まして私はここの出身者でもない「よそ者」ですし、無理だと思ったんです。
 自治会の役員というのは、これまでいわゆる「旦那衆」の仕事です。「女性の役員を出すことには協力しますが、私自身はできません。もっと立派な方を選出してください」とお願いしました。ところが、またしてもなかなか決まらなかったんですね。
 あるとき、うちの夫がたまたまスーパーで区長さんにお会いして、何を思ったか「できることは何でもやらせて頂きます」って言ってしまったんですよ。区長さんは、実質的に夫の了解を得られたと誤解されてしまって……。夫は「役員以外のことで、できることは何でも協力します」と言ったつもりだったらしいのですが、一度そうなってしまっては、もうやるしかないよなと。それで腹をくくりました。
 先ほども申しましたとおり、女性の声を自治会に届けるには、自治会の役員に女性が入るしか方法がない。問題解決のためにはやるしかないかと思いました。でも一部からは女性の登用はまだ早すぎるという声もあって……。でも、ここまできたら、やらずに後悔するより、やってみて反省するほうがいいかなと、決まった限りはしっかりやろうと思いまして、掛川市西郷地区構江区の副区長に挑戦してみることにしました。

役立たずの1年目のリベンジで再任を要請

 私が役員になったことで、自治会の雰囲気はガラっと変わりました。女性たちが皆、自分の意見を言うようになったんです。「代理で申し訳ありません」とも言わなくなりました。組長会議のときも自治会の三役が前に座るんですが、そこに1人女性がいるだけで、これほど変わるものかと思いました。 しかし、就任したものの何もわからない。とにかく他の方々に迷惑をかけないようにしようと精一杯でした。お祭りやバザーなどの行事に向けて、企画や準備をするんですが、仕事の内容はもちろん、皆さんの話している言葉すらわからない。1つずつ教えてもらうしかありませんでした。でも皆さん本当にいい方で、手とり足とり教えて下さいました。
 自治会役員の仕事というのは、子供からお年寄りまで幅広い年齢層の方に関わります。年間20回くらいイベントや行事や毎月の組長会議のほか、区長さんとも頻繁に連携し合う必要があるし、ときには区長さんの愚痴を聞いてあげたり……。ほとんど毎日、何か仕事があります。行政書士としての仕事との両立は大変でしたね。おかげさまで、夫には「わがままが直ったね」と言われました。自分では、それほどわがままとはと思っていなかったのですけれど……。
 役員改選の時期になったとき、「この1年、自分はあまり活躍できなかった」と反省しました。皆さんの後をついていくだけで、全くの役立たずでした。それでリベンジがしたくて、皆さんが賛成してくださるなら、もう1期やってみたいと思いました。ある程度、コツもわかってきたし、自分として「何をすべきか」も見えてきたところだし、何とか改善まで漕ぎつけたいと。それでお声も掛ったので再任させていただいて、もう2年役員を務めさせてもらいました。
 自治会では組長さんも集めて必ず忘年会やるんですが、最近は男女半々ぐらい。以前は男性一色でしたから、随分変わりましたよね。女性の役員がいることで、女性が参加しやすくなったのだと思います。そういう場でも、女性が自分の考えを言えるようになりました。本当に楽しい忘年会なんですよ。
 全部で3年間務めあげて、次の方に引き継ぐときには、「辞めないでくれ」と言ってくれた方もいました。「あんたがやってくれりゃいいだけどね」と言って下さったお年寄りもいました。

「人の役に立っている」という生きがいの発見

 自分としても、本当にいい経験をさせていただいたと感謝しています。地域に対する考え方が180度変わりましたね。それまで地域の行事なんて大嫌いで、何か理由をつけて出ないようにしていましたから。しかし地域のコミュニティというのは、ものすごい大事なんですよね。自分が地域の仕事に関わってみて、初めて実感として感じました。もちろん、うっとうしさはあります。でも自治会の活動がないと、地域での人と人とのつながりは、どんどん希薄になってしまいます。
 私が特に必要だと感じたのは、地域の防災活動です。実は2005年に、防災ボランティアコーディネーターの養成講座を受けました。副区長になったとき、自動的に防災対策本部長の役もやらなければならなかったんです。副区長が兼任というのが慣例らしくて。「知らない間に大変な役目を仰せつかっちゃった」と思いました。いざというとき、西郷地区の200世帯、800名の命を守らなきゃならないわけですから、「何かあったらどうしよう」と怖くなりましたね。
 そんなとき偶然、防災ボランティアコーディネーター養成講座のチラシを掛川市役所で見つけて、「これだ!」と(笑)。役員を退任した後も、防災訓練のお手伝いをしたり、西郷地区の防災特別委員という役職をいただいて女性の立場から防災を考えたり、「災害ボランティアコーディネーター掛川」の会員としてトータルコーディネートしたり、防災をとおして地域活動に参加しています。
 お金を抜きに喜んでもらえる地域やボランティア活動は、「人の役に立っている」という実感が、仕事とは全然違います。新しい発見でしたね。ものすごい大勢の人たちとの関わることで、友達も増えました。生きがいみたいなものを感じます。

「こもりきり」の介護にならないためにも

 実は、昨年から義母を在宅介護しています。義母は93歳で、現在、介護度が4。「介護は修行」とよく言われますが、確かに忍耐強さが必要です。まして嫁姑の間柄で、義母は大正生まれの昔堅気で頑固です。お互い個性が強いですからね。
 介護をしていると、仕事や他のことを諦める方が多いでしょうけれど、私は全部を三つ巴(みつどもえ)でやり通したい。仕事とボランティアと介護、自分の時間とエネルギーを3分の1ずつ費やしています。大変ですけれど、自分のなかで「これは一生懸命やりぬいた」というものを残したいという気持ちが強いんです。介護も、諦めずに自分の人生のなかで納得のいく成功例にしたい。自治会の役員をしたときも同じ気持ちでした。一度、引き受けて始めたからには、最後までちゃんとやり通したいんです。
 介護している人は孤立しがちですが、私の場合、地域の人たちが「大変だね」と声を掛けてくださることもあって、孤独感はありません。夫もいますし。逆の言い方をすると、「こもりきり」になるおそれがあるので、あえて社会とのつながりを保つ努力をしているのかもしれません。「こもりきり」になってしまったら、精神的なバランスをとるのが難しいと思うんです。なので、体力的には大変でも、地域活動やボランティアを続けているのかもしれません。社会とつながっているということで得られる安心感は、そのくらい大きいものです。
 気がつけば、虚弱体質だったはずの私が、とても丈夫になったんです。近所の方に「昔は身体が弱くて……」という話をすると、「ウソでしょ」と言われてしまうくらい(笑)。健康はありがたいですね。体力に自信がないと、それだけで自分の可能性を狭めてしまいますから。いろんな役割をいただいたことが、自分の生き方をこれだけ広げてくれたんだと、心から感謝しています。

取材日:2010.12



静岡県島田市生まれ 掛川市在住


【 略 歴 】

1988行政書士 曽根順子事務所 設立
2005掛川市西郷地区構江区 副区長(~2007)
2005掛川市女性会議 会議員(~2006)
2006~掛川市自治会女性役員連絡会 代表

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