チェルノブイリが価値観を変えた
出身は山形県です。高校卒業後、東京で漫画家のアシスタントをしていまして、静岡出身の夫と知り合ったのが、静岡との出合い。30年ぐらい前ですね。その後、静岡市内に移り住んで、ここで仕事をさせてもらって。いい友人がたくさんできたこともあって、今まで住んでいたところの中では一番居心地がいいんです。
ずっと漫画に打ち込んできました。少女漫画からスタート、最初は初恋や恋愛もの、自分が結婚してからは夫婦物といった、身近なドラマを描いていました。
それが大きく変わるきっかけになったのが、1986年のチェルノブイリの原発事故です。衝撃でしたね。私はちょうど3人目の子供が生まれた直後で、自分が気づかないうちに世界はどうなっていくんだろう、と。それまでは自分のところが幸せならそれでいい、という気持ちだったのが、静岡には浜岡があって、それが同じように事故に合ったら終わりじゃないか、と気づいたんです。何とか世の中をよくしたい、しなければ、という一心で、仕事が終われば市民運動にエネルギーを注いでいた時期もありました。漫画だけではなく、現実にも目を向けなきゃ、と必死でした。
強すぎる思いから、看護師の漫画へ
当然、自分が描く漫画も変わりました。浜岡のことや、核燃サイクル施設のある青森の六ヶ所村をテーマにしたりもしました。それまで描いていた夫婦ものを組み合わせて「今の幸せは、非常に危険な線の上にある。このまま黙っていていいのか」というメッセージを込めたりね。原発以外にも、食品や農薬、農業など描きたいものはたくさんありましたから「これでいいのか」シリーズのようなものを、いくつも描きました。でもそれが続くうちに、読者との距離がだんだん開いていってしまったんです。
それでもしっかりしたものを描いていれば、読者はついてきてくれるんだろうけど、私の場合はどんどん付け焼刃になってしまったんですね。あるとき編集者から「ごとうさん、そろそろ農業の話はやめましょう」と。私もハッとしました。農業をテーマにした漫画は、確かに描きたかったけれど、それを描く実力はまだ自分にはなかったから中途半端で、ただ「このままではいけない、伝えなきゃ、知らせなきゃ」という強すぎる思いだけで描いていた。漫画は息抜きに読みたいし、夢を読みたい、という人も多いですから、現実を描くにしても、夢もしっかりあるような描き方をしなければ、とそのとき思いました。
それから一呼吸おいて、看護師ものをやりませんか、と提案されて「エンジェル日誌」を描き始めました。最初は戸惑いましたが、取材させていただくと、看護師さんって、人が生まれるところから亡くなっていくところまで全てに関わって、その全部にドラマがあるんです。これなら私が描きたいことも全部描ける、と思った。ありがたいことに読者の方からの反応もよく、10年間連載させていただきました。
ちょうど自分の子育ても重なっていたので、命のこと、出会えただけで幸せだということを、前向きに描けたと思っています。
今だからこそ考える「死を迎える」ということ
実は今、一番興味があるのは死後の世界なんですよ。体が死んでも魂は続くんじゃないか、とか、そういうことを考えています。にわかには信じられない話ですけれど、死んでからも魂は永遠に続いていくのかもしれない、と考えると、今の自分の人生をおろそかになんて決してできない。いろいろ市民活動をやりましたが、結局何のために生まれたかを、みんなが気づかない限りは、世の中はよくならないのではないかというところに、私の中ではたどり着いたんです。そして、そこにたどり着くには、現実の毎日の暮らしをしっかり生きる。近くの人や家族とともに、ちゃんと生きていかない限りは、そっちにもたどりつけないだろうと感じています。
これから描こうかなと考えているのは「助死師」の漫画です。助産師さんは赤ちゃんが生まれて来るのをお手伝いする仕事。じゃあ「助死師」があってもいいんじゃないかな、って。死の瞬間そばにいて、大丈夫だよ、といってあげる仕事。それを描くために、主人公の設定や舞台をどうするか、構想を練っているところです。
私は友人たちと、一人でじっくり死を迎えるのもいいよね、なんて話をしているけれど、いざそのときになったら、どうでしょう、分からないですね。そんな心境にまでたどり着くには、やっぱり今をしっかり生きて、今できることを一生懸命喜んでやるだけ。そして、人を喜ばせられれば一番いいですね。人は喜びをたくさん経験するために生まれてきてるんだって、よく言われますから。
大好きな漫画でもし、誰かに喜びを与えられるとしたら、それは本当にありがたいことです。
取材日:2010.12