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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

コミュニティビジネスに対する長年の「志」を、
地域のブリッジパーソン育成の新事業に。

佐藤和枝(さとう・かずえ)

佐藤和枝(さとう・かずえ)



株式会社ミズ.クリエイション 代表取締役
「絆塾」 常任講師


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株式会社ミズ.クリエイション

起業20年目で考え始めた自分の天命とは?

「ブリッジパーソン」という言葉を知っていますか? 文字どおり「橋渡し」をする人のことなのですが、橋を渡すのは人、企業、組織、共同体、地域、国などさまざまです。橋を渡すとコミュニケーションが生まれ、情報が流れます。情報が流れるのに伴い、価値や人、文化など、いろんなものも流れ始めます。
 地域社会の課題を解決するために、新しい仕組みづくりを行うコミュニティビジネスでブリッジパーソンとなるのは、「社会起業家」と呼ばれる人たちです。私は最近、ブリッジパーソンを育成するための「絆塾」を始めました。これからの時代、地域を元気にするのは社会起業家といわれる人たちと思っているからです。
「絆塾」は、浜松を拠点に全国展開を考えています。すでに浜松市内各所、湖西市、東京大田区で出前講座を開催しました。常任講師には『地域の知恵を活かそう』『にぎわい文化と地域ビジネス』など多数の著書がある静岡大学大学院の相原憲一先生もいらっしゃいます。今後は社会起業家どうしの研究会や教材開発、将来的には市民ファンドも設立に取り組んでいく計画です。
 私が株式会社ミズ.クリエイションを立ち上げ、専業主婦から起業したのは1991年。もう20年前のことになります。ハウスクリーニングやレンタルスペースなどの事業を展開し、おかげさまでほぼ毎年、順調に業績を伸ばしてくることができました。2002年からは私の長男が経営に加わり、次世代を担ってくれる後継ぎもできました。
 ところが、あるとき「私の天命って何だろう?」と思ったんです。私は何のために生まれてきて、残された人生に何をすべきなのか――。考えをめぐらせていくと、「志をどこにもっていくか」ということに行き着きました。「世の中に役立つ人間でありたい」「地域のために高い志をもつ人間でありたい」と思ったことが、「絆塾」を始めたきっかけです。

「3足のわらじ」で学ぶことの楽しさを発見

 新しい志を胸に、2009年、静岡大学大学院社会人修士課程に入学しました。社会人対象の大学院で、授業は夕方以降と週末の集中講義。週3~4回は登校していました。社長、主婦、学生という3足のわらじは体力的にはキツかった。ときどきそこに「ばぁば役」も加わりますから(笑)、いつも寝不足でした。でも、本当に充実した日々でしたね。世の中には私が知らないことがいっぱいあって、それらを次々吸収してくのは、とても刺激的でした。「こんな考え方があるのか」「こんな本を書いている人がいるのか」と、毎日がドキドキ、ワクワクの連続で、学ぶことがこんなに楽しいということを、この齢になって初めて知りました。
 私が所属していた相原憲一先生の研究室は全部で6人。大学院には中国、インドネシア、ベトナム、バングラデッシュなど世界各国からの留学生もたくさんいました。あるとき中国人留学生が「私は、中国と日本の橋渡しのビジネスをやってきたい」と言ったんですね。「それってブリッジングだね」「ブリッジパーソンだね」という会話を横で聞いていて、「そうだ、地域にもブリッジパーソンが必要だ!」と。「研究テーマはブリッジパーソンで行こう」と決めました。
 私はこれまで、浜松市のまちづくり委員をさせていただくなど、地域の活性化に向けた取り組みに関わってきました。浜松商工会議所女性会で初代会長を務めたときも、まちを元気にするイベントを企画・開催してきたんです。例えば、自分の店をもちたい女性が1日だけ夢の店を開く「シンデレラショップ」というイベント、中心市街地を活性化するアイディアを集めた冊子「まちなか元気いっぱいアイディア集!」の制作、2003年には「北イタリアに学ぶ」という方針を打ち出しまして、北イタリアをテーマに「ブラッシュアップコンテスト」を行ったり、2006年には女性会5周年の記念事業として「コミュニティビジネス創出の必要性」という研究報告書をまとめ、浜松市に提言したこともあります。
 こうした経験は、大学院の授業でも修士論文を作成するうえで大いに役立ちました。論文を書くために、広島県世羅町、愛媛県今治市、岐阜県恵那市、北海道富良野など、「元気な地域にはブリッジパーソンが存在する」という仮説を立て、その人たちを訪ねてフィールドワークに行ったのも本当に楽しかった。
 修士論文は本来、2011年1月が締め切りなのですが、「絆塾」をできるだけ早く立ち上げたくて、半年早く今年8月に論文を提出しました。
 最近、強く思うのは、時代の変化が早すぎるぐらい早いということ。新しいビジネスを思いついても、ちょっとのんびりしている間に「そんなものいらない」という世の中になってしまいます。最も顕著なのはITの世界でしょうね。開発費を投じてソフトをつくっても、同類のソフトがあっという間に無料でダウンロードできるようになる時代ですから、のんびりしてはいられません。

「困った」を「良かった」に替えるビジネスを

 最近は新聞やテレビでも、コミュニティビジネスが頻繁に取り沙汰されていますが、私が最初にコミュニティビジネスに興味をもち始めたのは、商工会議所女性会の会長になる前。当時から、急速な高齢化に伴い、日本でもコミュニティビジネスが必要になるだろうと思っていました。それでコミュニティビジネスに関する講座を見つけては、仕事の合間をぬって都内まで通っていました。
 2006年に浜松市に「コミュニティビジネスの必要性」を提出した後も、コミュニティビジネスへの思いや興味が膨らんでいきました。聞くところによると、私たちの報告書は目に見えた形ですぐに実を結ぶことにはなりませんでしたが、現在、浜松市がコミュニティビジネスに力を入れていることと無関係でないようです。アクションを起こさなければ、何も始まりませんね。
 コミュニティビジネスという観点でミズ.クリエイションの事業を捉え直してみると、根幹の部分では共通しているように思います。例えば、身体が思うように動かなくなって、家の掃除ができなくなったお客様の「困った」に、「代わりにお掃除しましょう」とこたえると、「キレイになって、ああ良かった」となります。家じゅうモノがあふれて片づけられないという「困った」には、「レンタルスペースをお使いください」と提案しますね。するとお客様の「片付いて、ああ良かった」となる。
 つまり、この20年間、私がやってきたのは、お客様の「困った」を「ああ良かった」に替える、生活課題を解決するビジネスだということです。これはまさにコミュニティビジネスだということに、改めて気付きました。

工務店のパートで家事外注化のニーズを発見

© 中日新聞

 私は子供の頃、建築家になりたかったんです。でも両親に許してもらえなくて、独学で図面の書き方を勉強しました。高校を卒業してからも何とか図面が書ける仕事がしたくて、工業機械メーカーや自動車会社に勤務していました。でも結婚を機に専業主婦になってしまった。今にして思うともったいなかったですね。あの頃は寿退社というのが当然だったんです。でも、結婚してからも建築への夢は諦められませんでした。知人に頼まれて図面を書いたこともあって、私の図面で本当に建った新築の家が2軒もあるんですよ。
 1980年ごろ、広告代理店が主婦を集めてつくった「女性が考える住まいの会」に参加しました。建築やインテリアの専門家が、住まいに関する基礎的なことを教えてくれて、最終的には主婦の目線で使いやすい住宅設備機器について意見を述べるというボランティア活動です。ちょうどマーケットが女性の目線を求め始めた時代だったんですね。
 この活動がきっかけになり、ある工務店からパートの話がありました。既に子供が小学校に通っていましたので、週に3日午前中だけという条件でお引き受けしまして、結果的に8年間続けました。接客のほか、情報誌の発行、ファッションショーや婚活パーティーのイベントなど、女性の目線でいろんな企画・運営に関わりました。
 工事現場ではお客様に家を引き渡す前に、よく大工さんが一生懸命お掃除してるわけです。そんな光景を見て、これからはプロのお掃除屋さんが必要なんじゃないかと思いました。女性もどんどん社会で働く時代だし、家もどんどん大きくなっていくだろうし、そうなれば掃除などの家事は外注化の可能性も出てくるだろうと。これがミズ.クリエイションのハウスクリーニング事業の原点です。
 もう1つは、いろんなお宅に行くと、モノがあふれていて、話を聞いてみると収納が足りないということがわかってきた。特にマンション住まいの方ですね。それで個人向けの貸倉庫、レンタルスペースはできないかなと考えました。

幕末動乱期のブリッジパーソンに学ぶ「志」

 最初は起業なんていう気持ちはなかったんです。ところが、ある経営コンサルタントの方に「あなたならできる」って言われて、「そうかな」と思って……。じゃあやってみようかと、1991年にミズ.クリエイションを設立しました。本当にいろんな人が応援してくれて、私が営業に行かなくても「あそこ行ってみたら?」「丁寧にお掃除してくれるよ」と、口コミで情報を流してくださったんです。つまり私は、私とお客様をつなげるブリッジパーソンをいっぱいもっていたということですね(笑)。
 当時は主婦が会社つくるということが、とても珍しがられましたね。全国的に見ても女性の起業家はまだ少なかったですし、もちろん起業支援なんてない時代。女性が働くということ自体、どこか冷めた目で見られるような風潮がありました。それで起業と同時に、働く女性のネットワーク「HOWの会」を立ち上げました。
 あの頃と比べると、今は女性が起業しやすい時代になりましたね。むしろ女性のほうが、地域のために新しい切り口でビジネスができるかもしれないと思っています。それは世の中全体が、「生活者」という視点を重要視するようになったことが大きいでしょう。
 右肩上がりの経済構造が終焉を迎えた今、ダムや橋などの大型プロジェクトで地域は活性しないということもわかってきました。少子高齢化の世の中になり、私たちは今後ますます自分たちの地域の問題を自力で解決しなきゃいけない。本当に必要なサービスをボランティアではなく、ビジネスの手法で解決し、しかも持続させていかなければなりません。それがコミュニティビジネスや社会起業家の役割であり、地域にブリッジパーソンが必要な理由です。
「志」という言葉は、今後ますます重みを増していくと思います。きちんとした志をもつことが、ブレない世の中をつくるのではないでしょうか。私が今、いちばん注目しているのは江戸時代の儒学者、佐藤一斎。幕末から明治維新にかけての動乱期に、文字どおり時空を超えたブリッジパーソンとして、世の中に大きな影響を与えた人なんです。「絆塾」でも、一斎の話をさせていただいています。
 一斎が40年にわたって書きつづった『言志四録(げんししろく)』という随想録があって、志について書かれた部分も結構あるんですね。「少にして学べば、すなわち壮にして為すことあり。壮にして学べば、すなわち老いて衰えず。老いて学べば、すなわち死して朽ちず」。つまり、少年に時代に学んでおけば、壮年になってもそれが役立ち、何事かを成し遂げられる。壮年期に学んでおけば、老人になっても気力が衰えることがない。老年期になってもなお学ぶことができれば、死んだ後もその名は残る――という意味です。
 佐藤一斎の弟子には、松田松陰や坂本竜馬などがいます。皆さんにも是非読んでいただきたいですね。

取材日:2010.11



静岡県浜松市生まれ 浜松市在住


【 略 歴 】

1991株式会社ミズ.クリエイション設立 代表取締役
働く女性のネットワーク「HOWの会」設立
2002浜松商工会議所女性会 初代会長に就任
2009静岡大学大学院社会人修士課程 入学
2010ブリッジパーソン育成事業スタート

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