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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

子育てに悩む母親に寄り添い、
不登校の子供に居場所と希望を与える心理カウンセラー。

志水和子(しみず・かずこ)

志水和子(しみず・かずこ)


心理カウンセラー
NPO法人 静岡家庭教育サポート協会 副理事長


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NPO法人 静岡家庭教育サポート協会

子育てと自分自身を変えた心理学との出会い

 心理学の勉強を始めたのは、長女が保育園に通っていた頃。私の子育てに夫が批判的だったことがきっかけです。うちの主人は高校の教師で心理学の勉強もしていたことから、生徒たちの悩み相談室でカウンセリングをしていました。わが家には娘が3人おりますが「しっかりしつけなきゃ」と思っていた私に対し、夫は「そんなに叱っちゃダメだ」とか「厳しすぎるとか」と考え方が随分違いまして……。それで、私も心理学を勉強してみようと、子育て世代を対象とした母親心理学講座に通いました。
最初に学んだのは「交流分析」です。心理状態が周囲の状況によってどう変わるか、自分の癖の出方を知ることが大きな目的ですね。自分が怒ったりとか優しくなったり、人の目を気にしたりというのは、どういう状況のときかを自己分析していきます。
 講座に参加した後は不思議と平常心が取り戻せて、一時的にせよ、子供を叱らずにいられることができました。子供たちには「お母さんがこんなに優しくなるのなら、私たちお手伝いするから、ずっと講座に行っていていいよ」なんて、言われたこともありました。厳しかったんだと思いますね。
 講座を通して何人かの先生にお会いしましたが、最も影響を受けたのは山崎房次先生です。先生が1989年に亡くなられるまで、ずっとお世話になりました。心理学を勉強して理論的なことがわかってくると、頭でっかちというか、理性ではわかってもなかなか実践できないというジレンマがあるのですが、先生は理論より実践重視という考え方でした。私は「あのときあんなに叱ってしまって……」と、過去の罪悪感にさいなまれることが多かったのですが、先生は「過去のことは過去で変えることができない。今、この時点からやってけばいいんだよ」と言って下さいました。そういう言葉にどんなにか救われたかしれません。

「謝ってまたやり直せばいい」の言葉に救われた

 私は結婚して以来、ずっと専業主婦でしたが、主人が腎臓を壊して入退院を繰り返すようになったことで、家計を助けるために自宅で学習塾を始めました。小学生の授業はだいたい午後3~4時頃から始まって、6時半くらいまで。その後、7時半くらいから9時ごろまでが中学生の授業です。生徒は多い時には100人を超していましたので、大学生のアルバイトもお願いしていましたが、子供に接することができるのは、毎日わずか1時間程度でした。
 学習塾を切り盛りするかたわら、病院にも行かなければなければならない。夫は腎移植しまして、入院中は2回も危篤状態になりました。いちばん下の子の幼稚園が終わるのを待って、静岡市内の病院に駆けつけて、夫の看病をして家に帰る頃には、もう暗くなっています。病院から出前をお願いして「家に子供がいるので届けておいてください」ということもありました。
 その頃、長女は小学校高学年でしたから、2人の妹の面倒を見られる年齢ではありました。ただ「ミニお母さん」みたいなしっかり者になってしまったことが、後々、反動や反発になって返ってきました。私にものすごく反抗して、外へ飛び出してしまうこともありました。家の外にいるのはわかっているのに、意地を張って探しにも行かなかったこともありましたね。
 下の子は4年生の頃、一人でお風呂に入る時、「一緒にお風呂に入ってくれなくてもいいから、お風呂のドアのところでずっと私を見ていて!」と言っていました。かわいそうだなと思いながらも、どうしていいかわかりませんでした。
 いちばん悩んだのはこの時期です。それで日中、家事と看病と塾の仕事の合間をぬって子育てのための心理学講座に通いました。時間的にも体力的にも大変だったと思うのですが、心理学を学ぶことで心のバランスをどうにか保つことができたように思います。
 例えば、よその人には絶対言わないような罵声をわが子に浴びせたことを後悔していると、山崎先生は「自分が悪いと反省したら、すぐに『ごめんね』と謝って、またやり直せばいい」そうおっしゃられました。先生の言葉をできるだけ実践する努力をしました。「またダメなお母さんが出てきちゃってごめんね。わかってくれる?」と娘に言うと、「そうだよ。お母さんはもっといっぱい勉強しなきゃだめだよ」なんて言われましたね。
親であれ悪いと思えば自分から謝る――その重要性を教わっていなかったら、そんなふうにはできなかったと思います。心理学を勉強していたおかげで、子育てと看病のいちばん大変な時期を乗り越えられたのだと思います。

子育てに悩んで辿り着いた自分らしい生き方

 よくよく考えてみると、私自身、親が作った「鳥かご」の中で育った気がします。4人姉妹の長女で、「お前が後継ぎなのだから言うとおりしなさい」と厳しく育てられ、親に言われるままに短大に行って……。自由になりたいと思いながら、本当は自由がなかった。心理学を学ぶうちに「私もやりたいことをやっていいんだ」という思いが芽生えてきました。「母親はこうあるべき」という殻を破って、自分らしい生き方を見つけることができたように思います。
 もう1つ、当時を振り返って思うことは、学習塾をやっている手前、自分の子供たちはそれなりに「できる子」であってほしいと思う気持ちが強かった。そんな頭でっかちな私が変わり始めたのは、いちばん下の子が小学校6年のときです。今でもはっきり覚えているんですが、「この子はこれでいいんだ」と心から思えるようになったんですね。「できてもできなくても、周りの目を気にすることはない。その子をありのまま認めてあげよう」――あるとき、そう腹をくくることができたんです。
 三女は勉強があまり好きじゃなかったのですが、その半面すごく生真面目で、できないけれど宿題をきちっとやる子でした。でも、やってもやってもできるようにならない。漢字の10問テストでも、どんなに頑張っても半分、下手すると4問しかできない。いい点取りたいから頑張るんですよ。それでもできないから「私、寝ると忘れちゃうから寝ないでやる」と言い出して……。そんな健気な姿が可哀想になってしまったんです。「よーし、これからは、この子のいいところだけ伸ばすようにしよう!」。ある日、つきものが落ちたように、そう思えました。
 結果的には、そういう私の態度が娘にとってすごく良かったんですね。三女は今、カナダに住んでいますが、一番のびのび自分らしい生き方をしています。私は生きる上で大切なたくさんのことを、心理学と娘の子育てから学びました。

不登校の子供の居場所となるフリースクール

 心理学を学んできた友達と一緒に「心理学学習会」を立ち上げ、育児・教育相談、カウンセリング相談を始めたのは92年です。子育てに疲れた親たちの相談を受けることが大きな目的です。参加者のほとんどが、「すぐ叱ってしまう」「すぐ手が出てしまう」「ガミガミ言いすぎてしまう」という相談でした。
 そういう中に、不登校の子供をもつお母さんもいました。当時は学校側の体制が整っておらず、今のような小中学校の「適応指導教室」もなく、社会的にも不登校に対する理解はまだまだで「学校は行くのが当たり前」「不登校イコール良くないこと」という風潮がありました。
 不登校の相談に来るお母さんのなかには、お子さんを連れて見える方もいました。「親は相談しに行ける場所があっても、子供は家にこもっているしか行き場がないんだな」と思いまして、「子供の居場所も作らないといけないね」という話をするようになったことが、後のフリースクール設立につながります。96年3月に「フリースペースアラジン」を設立しました。
 「アラジン」という命名には、「魔法のじゅうたん」や「魔法のランプ」のイメージから、心身ともに疲れきっている子供たちの心を解放させてあげたいという願いを込めました。96年の設立当時は、ほとんどが小学生で、勉強する場所というよりは、皆で楽しい時間を過ごす場所でした。それが97年文部科学省が指針を出し、不登校の小中学生は市町村の「適応指導教室」に通うようになりました。現在、ここに来る子供たちはほとんどが高校生です。ところが高校生が自分の学校を言うときに「アラジン」というのは恥ずかしいという声が上がって、07年に「志太高等学院」と改めました。
 高校生が増えたのは、04年に通信制高校のサポート校になったことも大きいです。通信制の高校に入った子のなかには、勉強についていけないとか、レポートを期限までに提出できずに、結局やめてしまうというケースが結構あるんですね。例えば県立の通信制高校ですと、卒業できるのが15~20%。というのも、通信制の高校では与えられた課題を1人で勉強して、期日までにレポートを提出し、8割以上の得点がないと、もう一度レポートをやり直しなんです。レポートが合格しないと試験が受けられない。かなり自立した生徒でないと、レポートと試験を乗り越えていくのは難しいでしょうね。中学で不登校を経験して、何とか通信制の高校に入ったのに再び挫折を繰り返させたくない、通信制に通う生徒たちのサポートをしようと。最近は私立通信制高校とも連携し、サポート校として高校卒業ができるよう支援しています。
 最近、ここを卒業した生徒の中には、福祉系の大学や整体関連の専門学校に入った子がいました。お菓子作りが好きでお菓子屋さんに就職した女の子もいます。できるかぎり、それぞれの希望する進路に進ませてあげたいですし、それを支援するのが私たちの役目です。

「ここに来て良かった」が大きなエネルギーに

 不登校の子供たちの居場所づくりというのは、行政ではやりにくい面もあるし、営利を追求する企業が行えるものでもありません。目まぐるしい世の中の流れについていけない子供や若者が、とりあえずここで自分の居場所を見つけて、少しずつ社会的な適応力を高めていってもらいたい。少なくとも現状では、既存の社会に合わせる適応性を身につけることも必要じゃないかと思います。この春の卒業生が残した手記にも、「志太高にいた3年の間に自分の居場所ができたことが心の支えになっている」とありました。就職してここを出て初めて、居場所のありがたさがわかったのだと思います。
 ですから私たちの使命はすごく大きい。少子化が進む一方で、静岡ではここ数年、新設の高等学校がたくさんできました。どの学校も生徒が欲しいですから、子供たちのほうが学校を選べる時代になっています。にもかかわらず、どこにも入れない子供がいる。本当にここ以外に行く場所がないんですね。
 年々、エネルギーが乏しい子供たちが増え、すでに病名をかかえている子供たちもいる。このような中で向き合っていくのは、スタッフの精神的な負担も大きいです。私たちは医者ではなく、あくまでカウンセラーであり、学校の勉強も見てあげられるという存在にすぎませんから。でもやるしかない。優秀なカウンセラーを育成していくことも、自分に課せられた大きな使命です。
 実は6年前、夫が脳梗塞で倒れて2年前から車いす生活になってしまい、今も介護しながら仕事をしています。1年半くらい職場に来られなかったのですが、しばらく離れてみて感じたのは、ここは私にとって「切っても切れない場所」、気がつけば「自分にとっての居場所」にもなっていたんですね。ちょっと前まで、あと何年頑張ったら辞めて、これまでできなかった生活をしよう、趣味を楽しもうなんて思っていたんですけど、これが私の人生スタイルなのだと思います。仕事や子育てなど、それぞれの道を歩んでいる3人の娘たちも「お母さんから仕事を取ったら何もないわね」と、いろんなかたちで応援してくれます。
 私の座右の銘は「人として生まれたことに感謝し、今ここに生かされていることを喜びとし、日々大切に生きる」なのですが、さらに「人から感謝されること」が生きる上での大きな喜びになっています。生徒たちが「本当にここに来て良かったよ」って言ってくれる、その言葉が私のエネルギーになっています。

取材日:2010.11



静岡県牧之原市生まれ 焼津市在住


【 略 歴 】

1992「心理学学習会」を立ち上げ心理講座、育児・教育相談、カウンセリング相談を開始
1996「フリースペースアラジン」の名称で不登校生徒のためのフリースクールをスタート
2000「静岡家庭教育サポート協会」と改名しNPO法人に
2004ひきこもりからの脱出を支援する「フリースペース」をスタート
「フリースペースアラジン」を「アラジン学園」に改名。通信制高校のサポート校に
2007「アラジン学園」を「志太高等学院」に改名

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